2016年2月13日

初ひばり山より天を与へられ

20160213

大山崎町――昭和42(1967)年に町制施行するまでは大山崎村だが――は、明治22(1889)年に大山崎荘・下植野村・円明寺村の3村が合併して誕生した。それぞれの名前は、字(あざ)として残っている。河陽離宮跡あたりは字大山崎だし、小倉神社や鳥居前古墳などは字円明寺。円明寺、という地名であるからには、そういうお寺があっただとか、いまもあるだとか、そういう話があるはずだと探してみると、案外すぐに見つかった。小倉神社――というより自宅あたり――から山をくだって(小倉神社は登山道の入口とはいえ標高で言えば70~80mはある)ゆくと、途中に円明教寺というお寺がある。もとは円明寺といった。真言宗のお寺であり、開基である寛済法師から前太政大臣西園寺公経(さいおんじ・きんつね)に譲り渡され、その手によってこの地に山荘が営なまれていた。公経は承久3(1221)年の承久の乱以降京都政界の中心となった人物で、鹿苑寺金閣を建立したことは有名である(のちに足利家に譲られ、北山文化が生まれた)。第12・14代総理大臣を務め、また現在の立命館の礎を築いた西園寺公望もこの家系の人である。

さて、公経は山荘を営むにあたって、敷地内に大きな池を配した。それが、円明教寺の門前にある御茶屋池(九条池)。円明教寺はいまでは小さなお寺だが、かつてはこの池も敷地内であったというのだから、さぞかし大きな寺だったのだろう。なお、公経のつくった庭園は数多くあるが、その面影がいまに伝わっているのは、鹿苑寺金閣とこの御茶屋池の2箇所だけだという。御茶屋池は庭園として保存されているわけではないので、見物するための整備がされているわけでもなければ手入れ自体がされているわけでもなさそうだ。そもそも案内板すら出ておらず、単なる灌漑用の池としてしか扱われていない。つまりこの池も、邪魔であれば問答無用で失われていたかもしれないのである。「こんな貴重な遺構を壊すなんてありえない」と言ってしまいそうだけれども、現在まで残っている歴史上の重要な遺構もそんなものなのだろうなと改めて思う。たまたま取り壊されずに、いままで残っているから、重文だの国宝だの世界遺産だのという認定を受けて大事にされているだけのこと。いま自分が住んでいるところだって、1000年後まで残っていたら立派な「平成の遺産」にもなる可能性だってあるし、そうなれば「壊すなんてありえない」ものになるのだろうけれど、そうなる前に存在価値がなくなれば問答無用で取り壊される。考えてみればごく当然のことなのだけれども。

のちにこの地は公経から九条家の所有となり、別荘も多く建てられ、池庭の立派に整備されていった。一条家の祖であり、関白・摂政を歴任した実経は、政界で「円明寺関白」と呼ばれていた、という話もあり、さらには正和2(1313)年に伏見法皇や後伏見院も行幸され一日を過ごされたそうである。それくらいには名の知れた地だったらしいのだけれども、応仁元(1467)年に京都市上京区の上御霊神社での戦い(御霊合戦)が発端となり文明9(1477)年まで続いた応仁の乱によって廃れることとなった。ここ大山崎の地も当然、戦乱の舞台となった。

戦によって歴史は動かされてきた。これもまた、否定できない事実なのだろう。一方で、いくら戦争でも変えられないものがあるのも事実。
池に背を向けると、山城の国が視界いっぱいにひろがる。こうやって、時間は空間に溶けこんでゆく。