2016年2月14日

冴返る鉛筆曲がりつつ転げ

20160214

円明教寺からまっすぐ坂を下り、阪急京都線の高架をくぐるとその先にJR東海道線の線路がある。脇の道路より2,3mくらい高く盛ってあるところに線路が敷かれていて、道路はここで突き当りになってしまうのだが、よく見ると2mほど下へと下りる階段があり、人が通れる通路がそこにある。最初はコンクリートのトンネルなのだが、途中から煉瓦造りとなり、それが反対側まで続く。抜けた側から振り返ってみると、アーチ状になった煉瓦のトンネルである。
このトンネル、通路に対しては煉瓦がねじられたようになっている。さらにその煉瓦は壁・天井の部分だけでなく、床の部分にまで及んでいる。なかなか不思議な空間である。

このようなトンネルは「ねじりマンポ」と呼ばれている。明治時代、田んぼや水路・通路のあったところに鉄道を敷いたためにもともとの道が分断されてしまったから作られたもので、また、煉瓦がねじられているように見えるのは、線路が通路と直交していないからである。上の負荷に耐えられるよう、煉瓦は線路に直交するように積まれるのだが、そのように積まれた煉瓦の向きと通路の方向が一致していないためにねじられたように見える、と、そういうわけである。

こんなトンネルはここに限らず色々なところにある。大きいものだと、京都市営地下鉄東西線「蹴上」駅のすぐ傍にもある。こちらのねじりマンポの扁額の揮毫は、時の京都府知事、北垣国道(きたがき・くにみち)だというからなかなかに立派である。この知事さんは、工部大学校(のちの東京大学工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎(たなべ・さくろう)氏と二人三脚で明治23(1890)年に琵琶湖疎水を完成させた人物でもある。禁門の変で大半が焼け、明治維新・東京奠都と人口が減少し、産業も衰退していた京都に、琵琶湖の湖水を引っ張ってくるという一大プロジェクト。明治18(1885)年に着工し、犠牲者も出るほどの過酷な工事を経て完成した琵琶湖疏水、蹴上には日本初の営業用水力発電所、蹴上発電所も建設され、日本初の電気鉄道、京都電気鉄道が京都―伏見間で運転が始まった。陸路で舟を運ぶためのインクラインも、疎水による電力があったからこそ。立派な近代の記憶である。

話がそれた。大山崎のねじりマンポも数あるものの一つではあるのだが、ここの珍しいところは、床までも煉瓦が敷かれていることだという。さらに、ここは人がしゃがんでやっと通れるほどの大きさ。案内板によれば、「おそらく日本一小さな『ねじりマンポ』でしょう」とのこと。確かに日本全国の「ねじりマンポ」なんて誰も把握していないだろうし、する必要もないのだろう。「おそらく日本一」が正真正銘の日本一になることは多分無いだろうし、このままずっと「おそらく日本一」であってほしい。何かが証明されてしまったら、急に遠い存在になってしまいそうな気がするから。

それにしても「マンポ」って不思議な名前だな、なんて思っていたけれど、そういえばむかし島根県大田市の石見銀山に行ったとき、坑道は「間歩(まぶ)」と呼ばれていた。たぶん「マンポ」ってのも、そういう類の言葉なのだろう。