梟を自分の家と思ひ込む  鴇田智哉

この「自分」とはだれなのか。

梟という鳥自体、梟という器の中に棲んでいるような、閉ざされた深さを持っている。

梟を見つめていた私は、梟にだんだん心を吸われてゆき、梟を自分の家と思い込むまでになった、しかしそう思うようになってみると、もうこの考えている主体というのは、私でも梟でもどうでもよくなって、いつの間にか、梟のうちがわから、頬杖ついて窓の外を眺めるように世界を傍観しているので、自分とは、私でもあり、梟でもあったのだなあ、などと、ぼんやりと。

「思ふ」ではなく「思ひ込む」のあたりに、主観が強く出ていて、主観が強く出た分、外側から見た自分の実体をぼやかしてゆくような感覚が生まれるのだろう。

同人誌「オルガン」最新4号より。