2016年2月25日

はやく咲く蜂起の宮の椿かな

名越高家(なごえ・たかいえ)。生年は不詳。鎌倉2代執権北条義時の次男北条朝時を祖とする名越流北条氏の5代目である。1326年には評定衆の一員であったという記録もある。評定衆とは、もともと鎌倉2代将軍源頼家のときに開始された有力御家人13人による合議制がその原型で、3代執権泰時のときに合議制の最高機関としての評定会議が制度化され、そのメンバーである11人の有力御家人のことを指す言葉である。しかし、6代執権時頼のころに得宗による専制政治が始まってからは、形骸化してほとんど実権を持たない機関となっていた。
高家の「高」は、14代執権で最後の得宗でもある高時が偏諱を賜ったものである。ちなみにこの得宗というのは義時を指す言葉といわれる。こんな高家は、時の執権高時の命により、船上山の天皇軍討伐に向かうこととなる。ともに討伐に向かった足利高氏も、同じく高時が偏諱を賜っている。

4月16日、高氏が上洛。先に京に入っていた高家と、六波羅北方探題北条仲時、南方探題北条時益という面子で軍議を行い、高家は山陽道から、高氏は山陰道から、それぞれ討伐に向かうという段取りが決まった。高氏は丹波国の生まれとされており、生誕地であり親戚の領地を、天皇方の千種忠顕(ちぐさ・ただあき)から奪還しつつ向かうという名目だろう。
一方高家は、山崎と八幡に陣取る赤松円心(則村)を蹴散らしつつ船上山へ向かう算段であった。

赤松円心は播磨国守護であり、元弘3(1333)年1月21日に護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵、戦いを重ねて徐々に京へと進出し、六波羅軍と対峙していた。一度は総崩れとなり自害を考えるにも至ったが、再起し、山崎と八幡に陣取ることとなる。兵糧攻めに切り替えた円心は、3月28日と4月3日に攻め入るが六波羅を落とすことができずに陣に戻り待機していた。そんな折での高家・高氏出陣である。

高家は当時20歳くらいであったともいわれている。本当のところはよくわからないが、若かったのは確かであろう。そんな高家の、おそらく初めての出陣。まずは打倒・赤松を掲げ意気揚々と六波羅を出発、山崎へと軍勢を進めた。高家がこちらに向かってくるという情報を得た円心は、久我畷にて待ち伏せることとした。
久我畷にて円心の不意打ちを食らったが、数では勝る高家、力ずくで第一線は押し通した。しかし四方八方から次々と攻めてくる円心軍に翻弄されてゆき、高家軍の被害は確実に増してゆく。

高家の敗北は突然訪れた。まだ若く、戦に関しては初心(うぶ)であった高家。誰が見ても一目で、それが大将だとわかるような、極めて華美な出で立ちで戦に臨んでいたとも伝えられる。当然、攻撃は彼に集中することとなった。そんな彼を討ち取ったのは、のち佐用城を築城することとなる佐用氏5代佐用範家(さよう・のりいえ)。範家の放った矢は、高家の眉間を見事に射抜いたという。

――元弘3(1333)年4月27日、名越高家討死。

これが、天王山山頂にある例の「山崎合戦」である。「久我畷の戦い」のほうが一般的な呼び名であろう。このとき高氏は丹波国篠村の篠村八幡宮にいた。現在の亀岡市篠町で、トロッコ列車で有名な馬堀駅が近い。また京都縦貫道篠インターチェンジも近くにあり、京都縦貫道が大山崎ジャンクションまでつながったことで非常に行きやすくはなったところである。ここで高氏は高家討死の知らせを聞くと、後醍醐天皇の綸旨を受けて反幕府に寝返ることを決意。円心とともに5月7日、六波羅に攻め入り、ついに攻略、京都の制圧に成功した。同じころ関東では、生品神社(現在の群馬県太田市)にて新田義貞が幕府に反旗を翻し挙兵し、途中高氏の嫡男義詮(よしあきら、のちの室町2代将軍)と合流、次々と幕府軍を打破し、5月18日には三方面から鎌倉への攻撃を開始、先鋒隊として出撃した鎌倉幕府最後の16代執権北条守時を自刃に追い込み、北条氏の菩提寺である東勝寺における合戦では14代執権高時と15代執権貞顕も自刃、5月22日についに鎌倉幕府は滅亡した。これが、後醍醐天皇の討幕計画の露見に始まった「元弘の変」の全容である。しかし世に落ち着きが訪れるのはまだまだ先のことであった。