秋風が眼ふかくに来て吹けり    野澤節子

「眼ふかく」とは、見えているものの裏側、見えているものよりももっと身のうちに近いところだ。「眼ふかく」の喩に直面すると、「眼前」という位置が、実は自分からは相当遠い場所であることに気づく。眼に見えているのは、秋風の吹く、さびさびとした秋の景色。しかし、それを見ている眼の奥処にも、秋風は吹いている。からだが、一つのうつろな物質であるようなとらえ方に、いいようのないさびしさを感じる。

『脚注名句シリーズ 野澤節子集』(俳人協会 2010.12)より。節子の句に註をそえた松浦加古氏は、この句の註で「節子は生涯を通して、ときたまであるが「眼」を詠んでいる。眼は外界と交感する接点であり、詩の生まれる原点として五感を代表するものであろう」と書く。<蛇を見て光りし眼もちあるく><せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ><秋雨に両眼濡れて蟬鳴けず>。眼は、視覚をつかさどる神経でありながら、体の中にある部位、つまり、ひとつのモノでもある。「もちある」くモノ、「濡ら」すモノ。異物として書かれる眼はとても新鮮だ。
節子の句は、彼女が脊椎カリエスに伏した若い日々を経ていたからか、からだとこころのふたつが、ときおり遊離するような感覚がある。こうした眼の書き方も、自身の体を客観的に見る癖が、彼女の身についていたからかもしれない。