楽譜読めぬ子雲をつれて親夏雲   秋元不死男

「楽譜読めぬ」で切って読んだ。(雲はそりゃあ楽譜を読めないはずだが。)
この語呂の悪さに、この人の楽譜読めない感が漂っている。
最初から開き直っているというより、ちょっと読もうとして諦めた感。読んではみたいんだけど感。
未熟の象徴である子雲が連れていかれるという景に、
なにかひきずられるような未練の思いを重ねてしまうせいか。
大きな雲(もちろん、この雲もきっと楽譜を読めない)についていく小さな雲をぼんやり見ている。
楽譜を読めなくったって支障はないことも、でも読めたら楽しいかもしれないことも考えながら。
「親夏雲」という単語がすごい。ぎゅっと凝縮されているように見えて、意味する情景は淡く薄い。
句の中でこの単語が出てくる頃には、もう本当に、楽譜読めないことなんてどうでもよくなってしまう。
楽譜がなくても音楽はある、ということよりさらに、
音楽がなくても言葉がある、と不思議な自信が持てるのだ。

『万座』(『現代俳句の世界13 永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集』朝日新聞社、1985)より。

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