死ねば善人蟻一匹がつくる影  佐藤鬼房

死んだ人のことを、悪く言う人はいない。だから、みな「死ねば善人」なのだ。蟻一匹がつくる影は、あまりに小さく、なきがごとくだが、それはたしかに存在する。一人ひとりの人間も、同じなのだと強くメタファーしている。「つくる」という能動的な動詞を使っているところに、命の抗いを感じとれるところも、好きだ。

第一句集『名もなき日夜』(昭和23年)より。

明日、塩竃で「佐藤鬼房顕彰俳句大会」が行われる。昨年は、東日本大震災の影響で、投句のみの実施となった。今年だって、まだまだそれどころではないはずなのに、例年通り、大会をひらくとのこと。わたしも心して参加したい。20日(祝)の過ごし方が決まっていないかた、仙台は新幹線でぴゅーっといけますから、ぜひどうぞ。

さて、今年は、ジュニアの部の選句を担当したほか、シンポジウムにも出る。テーマは「鬼房の晩年の俳句」。
たしかに、鬼房といえば、若い頃に書いた「縄とびの寒暮いたみし馬車通る」「友ら護岸の岩組む午前スターリン死す」といった、いわゆる社会性俳句が有名。でも、改めて読み直すと、初期作品である新興俳句のころの俳句(昭和10年代の「蝶めしひ理化学辞書に燈がともる」「発火器をみがきぬ鳩のさびしいかほ」「いきもののぬくき寝息に書を読めり」など)がとてもよかったし、晩年の句も「鉛筆を握りて蝶の夢を見る」など詩性が衰えていない。全体を読んで、やはり鬼房も、新興俳句の作家なのだと再認識。句柄が純粋無垢だもの。

「○○の晩年」とか、その作家にとって旬とみなされていない時期を取り上げる場合、基本的には「変化を見つけ、それを評価する」か、「変化していない部分を見つけ、それを評価する」かの二択。さて、今回はどちらにしようかしら、と楽しく迷いながら、いま、仙台に着いたところです。