わたくしの瞳(め)になりたがつてゐる葡萄   野口る理

 葡萄と瞳の等質性への着眼は珍しくない。葡萄の粒が「わたくしの瞳」になりたがっているという点にこの句の独自性がある。眼前の葡萄が意識の内部へ浸透してくるわけだ。無邪気な見立てなどではなかろう。自然界の事物から呼びかけられるモティーフの作として、宮沢賢治に「風がおもてで呼んでゐる」という詩があり、そこでは風が「おれたちのなかのひとりと約束通り結婚しろ」と叫ぶのだが、ふとそれを思い出した。昨日読んだ〈日焼けして緑の服のひやりとす〉もそうだったが、る理さんの感覚のありようが私には興味深い。

 「葡萄」は「わたくしの瞳」になれば葡萄でなくなる。己の自由を捨ててまで、他者の一部になることを願うわけだ。そうしてそれを受け入れれば「わたくし」は自分自身の「瞳」を失う。「葡萄」と「わたくし」は共に己を失い、何を得るのだろう。

「眠くなる」(『俳コレ』邑書林、2011)より。