めくってもめくっても麦秋がある  山崎十生

サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を思い出す、郷愁あふれる一句だ。とはいえ、何をめくったのかは分からない。本のページだとしたら、それをめくってもめくっても麦秋があるような、さわやかなストーリーなのだろう。あるいは、麦畑をめくってもめくっても、麦秋があらわれるだろうと思えるくらい、すみずみまで麦秋の世界だと捉えることもできる。風になでられてゆく麦のなびきが、まるでめくられたページの一枚のようだ。

第八句集『悠悠自適入門』(2012年4月、角川書店)より。
東日本大震災以後、あの震災を俳句に詠むさい、季語が必要だと言うことで「春の地震(ない)」という言葉が横行した。それに対して十生は「春の地震などと気取るな原発忌」とストレートに批判している。ここでの「原発忌」も、季語ではなく、アイロニーをこめた造語として機能していると思いたい。もし原発忌というものが本当にあるのだとしたら、それはかつての或る日付ではなく、今日只今も季節にかかわらず続いているものだろうから。
そのほか、心ひかれた句をいくつか。

藤の花一年前の一年後
空になったペットボトルに秋がある
大海月ゆらりはるかに富士の山
コスモスの一番低いのを探す
砂時計には上下なし桜桃忌
震へつつ生まるる雛(ひよこ)梅の花
起き上がり小法師の果ては虹である