泳ぎ来てどつと投げ出す心かな   佐藤郁良

一生懸命泳いでいるときの無心さがより際立ってくる。
「来て」という言葉から、誰かが受け取ってくれる、誰かのを受け取っているという関係性が見える。
たとえば、競泳選手の試合後のインタビューの清々しさ。
試合中には分からなかった表情や声、仕草とともに、彼らの言葉を受け取るとき、
水の抵抗に逆らってしなやかに泳ぐ体の中にも当然「心」があることを、
そして体から滴る水とは別に、心はなにか質量をもって「どつと投げ出」されることを、目の当たりにする。

『海図』(ふらんす堂、2007)より。