人類に空爆のある雑煮かな  関悦史

テレビに映る空爆の図を前に、ごった煮の雑煮の餅がグロテスクにとろけてゆく。あるべきだともなくすべきだとも言わない、ただ「ある」とだけ言うこと。

『六十億本の回転する曲がつた棒』(邑書林・2011年)所収。『増補版 現代秀句』(2012年11月・春秋社)にも収録されている。十年前の2002年に刊行された『現代秀句』(春秋社)は、正木ゆう子による現代俳句の鑑賞。一ページに一句とその鑑賞が添えられている形式で、明快でいきいきとした文章のみならず、選句にも正木の個性がみられる魅力的な鑑賞本だ。今回、これまでの216句に18句を新たに書き加えた増補版が刊行された。

正木は、この関の句を読むとフォークランド紛争の際の小池光の歌「あきらかに地球の裏の海戦をわれはたのしむ初鰹食ひ」を思い出すとし、俳句では小池が苦い思いをこめた「われはたのしむ」を言う必要がないというところに形式の違いを見出している。

俳句はものを言えないのでなく、言う必要がない。ゆえにより非常に物事を対象化するということに、関は意識的だ。現実にまみれながら、対象化するのが彼の方法である。
(正木ゆう子『増補版 現代秀句』)

私の「ここもまた誰かの故郷氷水」も取り上げていただいた。

「今」「此処」を詠みながら、作者にはこの場所・この瞬間を俯瞰的に人生の一場面として見る別の視点がある。醒めた、それゆえに哀しみを秘めたその視点は、これからものを書き続ける上での宝物になるだろう。(前出)