さあどうする面白いぞ川柳 その7

東野大八著、田辺聖子監修・編集『川柳の群像』(集英社、2004)

『川柳の群像』を読む

さぁこの本はいよいよラスト、きりんの部屋は、なでしこジャパンぐらい支持されていると自己暗示をかけて、歯みがき粉のチューブをぐにっとやるように最後の気合いを出して書こう、と言ってもあくまで僕はこの本の紹介、作者、編者の素晴らしい仕事の成果を横取りしないよう、ちょんちょんと引用します(つまりみなさんこの本買ってね)。

この本の見所はさっくり言いますと、

、有名な川柳作家と代表作がさくさく読める、
、何にも知らない人でも川柳の歴史がなんとなくわかる、
、引用エピソードが細かく、贔屓の作家ができる、   という感じでしょうかね。

僕は入門書というのが面白いかどうかは、このにかかっていると思います、その点この本は、180点ぐらいあげたい出来です。

さてさて岸本水府の項を読むと、ざっくりと川柳運動について書いてある、僕ら俳人にとっては特に興味深い部分なので引用させてもらおう・・・とおもったけど長いので、ざっくり書くね。

川柳革新運動と呼ばれる文学性を唱うもの、古川柳の再評価、そもそも川柳と呼ぶのがだめだという運動、寸句とか草詩と呼ぼう、そのあとが川柳第四運動で、水府の、不真面目な柳号の廃止(!?麒麟は大丈夫かな・・・)、懸賞の廃止なんかである。

ね、どうでしょ、俳句の歴史に似てません?
この本読んでて、あ~、この人は子規で、碧梧桐だな、川柳は詩だ、と言う人を見ると、草田男だな、とか、新興川柳運動なんか見るともう、新興俳句の俳人達を思いだすし、見れば見るほどよく似ている。

こんな事言っちゃなんだけど、もしかしたらここ百年の文芸の歴史というのは、どのジャンルも非常に似ているのかもしれません、その中でも特に俳句と川柳なんてのはもっと読み合い楽しみ合う事ができそうな気がします、柳人はみな俳句の4S4Tぐらいはご存知かと思いますが、俳人、少なくとも僕の周辺の俳人には川柳六大家、一人も言えない人が多数です、これはもしかしたら非常にもったいないのかもしれせん。
例えば、俳句好きです、とか言う他ジャンルの人から、俳句は好きだけど、虚子って誰ですか?とか言われたら、まぁあーあ、と思ってしまいますね、僕らはその逆で、五葉も三太郎も水府も知らないと・・・、ね、なかなか恥ずかしいじゃありませんか、いや、恥ずかしいより、もったいない、読まないといけないものはまだまだ星の数ほどある、燃えますぜ。ペヤングやきそばを食べながら書いてるとは思えないほど良い事言いました、今、ドヤっ、ズルズル、うまうま。

この本が売れますようにさっき書いた、引用エピソードが細かく、贔屓の作家ができる、の一例を挙げましょう。

川上三太郎の項

しかし三太郎の夢はユーモア小説家で自立することにあり、この頃盛んに講談社系列の大衆雑誌に幾つかの作品を発表している。このため三太郎は、川柳を捨てこの道一筋に進む事を決意し、雉子郎に打ちあけたところ、雉子郎は三太郎の頬をなぐりつけ「現川柳の壁を破るのはお前とおれだ」と睨みつけその非をなじった。
友達のうしろ姿のありがた味
の句はこの時生まれたという。

か、かっこいい~!うわぁ~、川上三太郎、大好きだ、惚れたよ、川柳ね、ほらっ、かっこいいんだよなぁ。僕はその後すぐ図書館に籠り読み漁ったけど想像を軽く超す楽しさでした、それはまた今度やるね。

ちょっと青臭い事言おうかな、僕は俳句はカッコいいと思い始めたので、よく、えらいね~(若いから)とか言われるのが面白くないわけです、髪を赤く染めてモヒカンにしてデスロックを奏でるのと同じようなイメージで僕は俳句をやっているわけで、全然『えらく』はないのだ。

川柳に対しても僕らは誤解しちゃいくない、カッコいいのがね、あるんです、しかもゴロゴロ。

僕の部屋にはクラッシュというグループのロンドンコーリング(曲名)のポスターが貼ってある、全力で地面にベースを叩きつけようとしている誰もが一度は見た事がある有名なやつである、俳句も川柳もロンドンコーリングも同じぐらいカッコいいはずです。少なくとも僕はそう思うよん。

さぁ、みなさん本屋へ急ぎこの本買いましょう、俳人の9割がこの本を買えば、何かが変わるような気がします。

来週からは例のあれをまたあんな風に再開します、じゃ、バーイ。