(『阿波野青畝全句集』花神社、1999)
『不勝簪』を読む
里帰り三日目、ようやく、飯食って俳句作って寺行って俳句読んで、という生活に慣れてきました、いやもう太る、お母さん、僕もう28です、そんな食べれません、あぁ愛が重たいぜ、父母が喜ぶならおかわりもしよう、太ってもあげよう。塩と酒が欲しい、なんて言わないぜ、愛故に・・・
はい、別にどうでも良いですよね、僕の実家での生活とか、今回も青畝読みます、今回は第七句集『不勝簪(ふしょうしん)』です、正直『あなたこなた』は句数が多く(876句)苦戦しましたが、今回は678句、多いようですが実際読むとそうでもありません、さくっと読めます、青畝は全11句集ありますが、この段階ですでに「老い」を有効な武器として使いまくっています、これは僕みたいな若造にはとても無理な芸当です。
この句集は昭和49年から始まります、青畝は当時75歳、もちろん俳句は超元気、さ、読んでいきましょ、下からお母さんがおやつよーと叫んでいます、そんなに食えんわい!
それより俳句じゃい
眠りつつ入歯うとむや老の春
またかと思いつつも最初から五句続けて「老の春」、好きだなぁ・・・。
若きらと歯車合はぬ老の春
これなんか良いですね、若干僕もそうですが・・・、若い友達も欲しい。
海女笑ひたれば歯無しよ鮑取
にかぁ~っと笑う感じが出てます
夏鹿のふいと振り向く小顔かな
この鹿は涼しくてかわいいですね、夏鹿が良い。
悔なしと嘘つく女芥子の花
それぐらいの方が人生面白いのかも
はやらざる湯宿の蚤に食はれけり
よりによってこんなところで、って失礼だなぁ、タハハ
神にませば月を鏡となしたまふ
虚子の句も好きですが、こっちも良いですね、大きな神様に見守ってもらっている感じが良い。
翁忌に行かむ晴れてもしぐれても
とにかく行こう、降ってもうだうだ言わない
あの猫のふぐり二つや春の月
照らされてます
八百万神様のごと囀れり
これは今回初めて発見した句、すごくないですか?『囀る』で八百万神様は、僕は出てこない、小さいものに目を凝らしていてはまだまだなのかもしれません。
俳諧に遊ばばや明易くとも
もっと遊ばないと、そして遊びつつ詩を殺さないようにしないと、青畝から学べる事は実にたくさんあります
顔わろき石仏ら待つ山開
仏も顔じゃない
浮いてこい浮いてお尻を向けにけり
ぷりっとな
土不踏なければ雛倒れけり
これも有名な句、ころんという様が見えるようで可愛い
女かや男かや花の篝守
聞けないよね
白遍路醤油の街をこぞり来る
白に醤油、でもねうまくいってるんですよね、青畝の句の場合は
西遊記手にあり虻を払ひけり
青畝翁と西遊記と虻の組み合わせが絶妙
尋常に朝の朝顔震災忌
僕は年々朝顔の花が好きになっています、実家では毎日朝顔を確認しに庭へ出ます、朝顔って安心するんですかね。
俳諧をさみしくしたり鳥威
前書は、素十を悼む。俳句界もさみしくなったでしょうが、青畝自身が寂しがっている様子が痛々しく悲しい。
こんな句を誰かに詠んでもらえるような俳人って良いですね
双六の一がよく憑く不思議かな
不思議かなと言いつつ、畜生と思っているのかも
湖を前少便小僧チューリップ
見てそのまま詠んだだけなのに、面白いからズルいなぁ
ツンドラに生きつづけをる枯木かな
前書はノールウエイ。ノルウェイより良いね、ノールウエイの森とか、のどかで
鮟鱇のよだれの先がとまりけり
鮟鱇の名手青畝翁、楽しそうに観察しています
竈猫代官屋敷守りけり
竈猫と代官屋敷ってなんだかよく合う
春の猫目やにを出して老いにけり
青畝はほんとに老いを否定しない、ただそれだけに残酷な時もあります。ちゃんと老いを眺める。
天王寺さんは大寺明易し
なぜか天王寺さん、が明るく効いています、名前大事ね
蚊を叩き「墨汁一滴」よごしたり
しまった!
蝮捕ものやはらかにものをいふ
これは有名な句ですね、綺麗な平仮名の使い方ですね、かえって蝮捕の凄さを感じます。
煮凝のくだけおちけり老の膝
これは句集最後の句、青畝は無理をしないで思ったまま感じたままを詠むので、こっちも変に構えずにタハハと面白いなと読むのが良いんでしょうね。
最後にあとがきが印象に残ったので引用します
いつもわが作品をふりかえると誇らしいものは無い。生きてきたという証拠にはなるけれど、じぶんの排泄物を嗅ぐといったような含羞心からまぬがれることができない。でも、これはじぶんの一部分であって他のものと見ることのできぬことがある。そこに意義を感じるしだいである。
麒麟の吐いた俳句だって、どんなにくだらくても僕の一部、大切に大切に吐きたい、そしてお酒は吐きたくない(台無し)
バーイ