2011年6月 神野紗希 × 西村麒麟

『俳句』六月号を、買う前にすこし本屋で立ち読みして、新鋭20句競詠の二つの連作のタイトルに思わず笑みをこぼしてしまった。神野紗希の二十句の題名は「ラ」、西村麒麟の二十句の題名は「グースカ」だ。「ラ」も「グースカ」も、この大きなフォントで刷られるとなかなか衝撃的で、不意をつかれた心地がした。
軽やかささえ感じさせるその題名は、なにかとても軽妙な句を予感させる。しかし、連作の題名とは裏腹に、二人の文章は句に込められたものの重みを感じさせるものだった。

神野紗希の作品から見ていこう。「今ここ」と題された短文は、ときたま「明日は来ないかもしれない」と考えると、「今ここにあるものたちのすべてが、とてもいとしい」と感じることを述べている。この文章を読めば、おのずと二十句は作者にとって「いとしい」ものを詠んだものとして迫ってくる。

  たんぽぽの茎の短き都会かな     神野紗希

たんぽぽの茎が短いという、言ってしまえばそれだけのことが、やはり輝いて見えるのは、それが都会だからなのだろう。アスファルトの裂け目から、決して豊かではない栄養を懸命に吸い取ってたくましく花を咲かせるたんぽぽの姿を思った。それも、この述べ方からすれば、想像は、広い都会のそこかしこに人知れずがんばっている無数のたんぽぽへ自然と向かう。「今ここ」にあるたんぽぽの姿をいとおしむことが、「今ここ」ではないいつかどこかにある匿名のものたちへの思いにも通じていく。

  現代詩・紫雲英・眩暈・原子力     同

「ゲン」の頭韻が印象的な作品。今、「現代詩」と「原子力」から多くの人に想起されるのは、福島県在住の詩人、和合亮一が震災後に発表した「詩の礫」「詩ノ黙礼」そして「詩の邂逅」だろう。作者の発想もおそらくはそこにある。ただ、「現代詩」という抽象は、個々の作品と同時に、もっと普遍的ななにかを思わせる。現代詩の言葉の生命感、躍動感、哲学性、批評性――およそ「現代詩」という名のもとになされたあらゆる営為の総体があって、そこに畳み掛けるように「紫雲英・眩暈・原子力」と連なってくる。具体的なものは「紫雲英」しかないが、「眩暈」という言葉と、リズミカルな音の繰り返しの作用によって、それらのものすべてが色彩の渦のようなものとして視覚的に想像される。

  アネモネが揺れてケトルを火にかけて/strong>     同

前回の記事(2011年5月 田中亜美×津川絵理子)で紹介した田中亜美の震災詠に詠み込まれたアネモネと比較したとき、このアネモネから感じられるのは日常にふと添えられた華やぎだ。二句を連ねて優劣をいうつもりは全くないけれど、このアネモネは、ただ純粋に綺麗だ。そして、これはこれで、ひとつのアネモネのありかただったなと、思わせられる。コンロの火が、あったかい。

  信号は青を忘れず夏の空     同

赤になった信号も、必ず青に戻る。夏の空の青さと広がりのなかで、そんな当たり前のことが尊いことに感じられる。青という色の持っている、安心感。黄や赤が喚起する不安を乗り越えて、そこに帰ってくることの出来る安心。当たり前に保証された安心の尊さがこの句からは確かに感じられた。

西村麒麟の「饅頭」と題された短文は、句作りを饅頭作りに喩え、「哀しみ」をつつみこんだ「クスッと笑えるような句」を作りたいと語っている。「美味しいか不味いか作ってみないとわからない」。それでも「とにかく作ろう」という。彼の作品には「哀しみ」が詰まっているのだ。

  絶対に春炬燵から出ぬ男     西村麒麟

――でも、やっぱり笑える。表面はむしろ笑いに満たされている。描かれているのはきっと、不精な男。その「絶対に」の命がけな感じが、笑わせてくれる。これは、三月の甘納豆的な、うふふふふって感じの笑いだ。この笑いの中には、けれど、たしかに悲哀がある。それは「春炬燵」という言葉に、春になってもまだ寒い、ということに加えて、それはまもなくしまわれてしまうもの、すぐに不要になるものであるというニュアンスがあるからだ。そして、その春炬燵に固執する男の丸まった背中を想像すると、これはもう、文句なしにさびしいのだ。

  つるつるのつるの帰つてしまひけり     同

「つるつるのつる」ってどないやねん、とは思うけれど、上に挙げた句に比べれば、こっちは笑いと悲哀が双方とも表面に見える。笑いの皮は分厚いけれど、底からのぞきこむと哀しみの餡が見える饅頭だ。「帰つてしまひけり」の述べ方から、「恩返し」の説話に出てくる鶴のイメージが想起されて、この感傷を引き起こすのだろう。

  昼酒が心から好きいぬふぐり     同

これは、とても共感できる。たまの休みに飲む昼酒が、くぅーっ、と身に染み渡る感じだ。いぬふぐりの花の世俗性を持ったあかるさは、「昼酒」のイメージにぴったりで、惚けたような春の陽射しも、心地よい酔いを思わせる。うらやましい。ただ、いぬふぐりから想像される、春の野原で飲む酒は、高い酒ではないんだろうなあと、(高けりゃいいって訳でもないけど)ワンカップ大関か白鶴あたりなんだろうなあと、しかもひとりで飲んでいるようだし、そう思うと、休日の過ごし方としては、やっぱり、ちょっとさみしいか。

  夕顔や二代目もまた白き猫     同

「二代目もまた」というからには、初代がいたはずだ。「代」という言い方からは、商店の猫が想像される。きっと、お客に人気の猫だったのだろう。店主に愛されもしただろう。しかし初代の猫は亡くなってしまって、あとを継いだこの二代目は、実子だろうか養子だろうか。養子だとしたら、初代と同じ名前で呼ばれるのだろうか。コピーではないのに、コピーであることを期待されてしまう、飼い猫の宿命を感じずにはいられない。

人間、生きていて哀しいことが何もないなんていうのは、きっと欺瞞で、主観をとおして見る世界は、むしろ哀しみにあふれていると言ってもいいと思う。そして、そういう哀しみにありありと触れてしまったときに、どうするかというのは人によって違っていて、たとえばそれらから遠ざかろうとしたり、それらを変えようと力を尽くしたり、いろんなことをする。今回取り上げた二人は、そうしたとき、ひたすら哀しみに対して向きあおうとする人たちだと、作品を読んで思った。ただ、それは決して、哀しみに飲み込まれてしまうことではない。

哀しみに溢れている世界は、同時に喜びにも溢れていて、それらが奇妙に織り交ざっている。表現者としての僕らにとって問題なのは、それをどう描くのか、あるいはどう描かないのか、だ。この二人は哀しみを描くと同時に喜びを描く。あるいは、哀しみでありながら同時に喜びでもあることを描く。

ひょっとすると、作品世界を希望で塗りつぶしてしまうことは、作品世界を絶望で塗りつぶしてしまうことと同じくらい危険なことかもしれない。そうした作品は強いカタルシスを誘発するために、ときとして普遍的な評価を得るけれど、一方、そのあまりに強い色彩で受け手の世界観を歪めかねない。

この二人の作品は、そうした単純化とは逆の向きを目指している。ありのままの世界をいとしむために、ありのままの感情に刃を入れないで、そのまま言葉に起こそうとする。悲しみと喜びとに分離しそうになる言葉を、どうにか繋ぎとめてひとまとまりのもの――それはひとつの連作だったり、あるいはひとつの句であるかもしれない――にしようとする。言葉という道具の機能からすれば、それはとても骨の折れることだ。哀しみと喜びのように両極端にある感情が実は通じているということを、理屈で説明しようとすれば、むしろその二項対立が引き立ってしまう。実感としてそうしたことを体現する言葉は、なかなか無い。しかし、だからこそ、俳句のような、言ってしまえば言葉足らずの言葉の可能性はそうしたところにあるのかもしれない。