2011年7月 藤田哲史 × 中村安伸

藤田哲史の作品に添えられた短文に題名のないことには、きっと意図がある。作者は、「どこへもいかないこともでき」ると考える「脱力感」は、「時間の正しい経過を疎みもする」、と記す――抽象的な言葉だけど、きっと誰にでも一度はある、あの暇にまかせて寝過ごしてしまった日曜日のような感覚のことを言っているのだろう。そして、そのようなとき、作者のもとには「脱力感と時間の経過の隙間をすりぬけて、ひたひたとながれてゆく水のようなものがあらわれる」のだという。このとき比喩として使われている「水」は、作者にとって「汚れようのない、実体のない」ものらしい。作者は、「近ごろはそんな感情」なのだという。
そんないまひとつ掴みがたい表現が、まさしくひたひたとながれてゆく水のようでもある。意味深でありながら、同時にそのことによって限りなく象徴的な意味性を薄めようとしているかのような表現に思える。文章のつくりとしては連作をまとめた時期の作者の感情を語ろうとしているようでありながら、読後には、むしろ映像的な「水」の印象が強く残る。そしてその映像的な「水」の印象が、「ポテトチップス」と題された二十句の中に現れる具象的な言葉としての水ないしは液体のイメージを強化するように感じられる。文章に題名のないことは、読者が何か文章自体の主題のようなものを見出して文章を意義づけてしまうことを回避し、そのことによって、文章があくまでも句のイメージをより増幅させる添え物として受け取られるようにするために、重要だったのではないだろうか。

  十薬に真水は他律的翳り     藤田哲史

「水」の句だ。「他律的翳り」という言葉のもつ、どこかつめたいムードが、真水の質感をよく捉えている。透明で、なにものにも染まってしまいそうな、なにものにも染まっていない、真水の質感。どくだみの、白く、それでいて薄暗い印象の花の下に翳る水の静けさを独自の新しい言語感覚で描いている。

  旅もせず七月ながれゆきにけり     同

文章に書かれている「どこへもいかないこともでき」ると考える「脱力感」がこの句のベースになっていて、「時間の正しい経過」を「疎」むこころが読み取れる。そして「ながれゆ」く水のようなものと、七月。この句は、その表現の上で、二十句の中でもっとも文章と強く結ばれている。旅に誘うような七月のあかるい陽光をぼんやりと眺めながら、しかし、多忙のままに過ぎてしまった七月を、ぼうっと思い返す、そのふとした感慨が語られている。

  浴室で脱衣即夜濯夜半     同

この句もまた、水分をとても意識させる。浴室の湿り、汗を吸った服の湿り、そして夜濯ぎのための水。灯りは点けているのだろうけれど、なにか陰影を感じさせるのは、作者自身が「脱力感」と記すような、連作全体の雰囲気の影響ばかりではなく、むしろ、この句の言葉の使い方のためだろう。「脱衣即夜濯夜半」という、漢字のもつ無機的な質感が、それによって生活の一場面を確かに描き出すとき、そこには自ずから映像的な暗さが伴うのではないだろうか。一人暮らしの、夜の景だ。

  忘れられしビーチボールにきのふの息     同

浜辺に忘れられたビーチボールだろう。空気が漏れてしまっているのか、張りをなくして、すこしへこんでしまっている。その、実際のモノに対して、中に残っているのが「きのふの息」だという把握をしていることに、詩があるのは確かだけれど、それだけでは忘れられたビーチボールの凹みをそれとして描き出す従来風の写生的な表現と比較して、この句の描写が持っている、より決定的な違いを見逃してしまうことになるだろう。「きのふの息」という表現によって、この句が描き出しているのは、もはやただモノとしてのビーチボールではない。この句は、そのモノから感じ取られる、流れ去ってしまった時間を描き、読者にそれを把握させる。
表現することの目的や独自の価値は、現実の事物をリアルに模倣することではない。もし、表現することに、実物の精巧なニセモノを作ること以外の目的や価値が見出せないとしたら、その表現を実物と比べたとき、そこにはいったいどんな積極的な価値があるといえるだろうか。模倣は表現の目的や価値そのものではなくて、それを達成するための方法の一つにすぎないはずだ。
そうではなくて、受け手に何か特定のものを把握させるということに表現の存在意義を見出すとき、この句は大きな価値を持っていることが分かる。浜辺に凹んだビーチボールは、多くのひとにとって、そのビーチボールが「忘れられしビーチボール」であって、そこに「きのふの息」が封じられている、という表現を通じることで、やっと、流れ去った時間を確かにありありと把握させる装置として機能するのだから。

中村安伸の「作る力」と題された文章を、このことと合わせて考えても興味深い。作者は「近頃自分の関心を引くのは「作る」力、つまり何が私に俳句を作らせるのかということである」と述べ、「作る力がどこからやってくるのかは謎である」と、その掴みがたさを語っている。表現によって実物を超える何かを把握させようとするとき、その何かを、表現の作り手自身はいったい何によって把握するのだろうか。

問いはひとまず置いておいて、句を見ていきたい。「立体視」と題された作品は、その題名からも感じ取れるように、表現によってなにものかを把握するということに対して、意識的に向き合っているように感じられる。

  コンビナートおほかた錆びてみどりの日     中村安伸

「コンビナート」というと、個人的には、なぜか、日本の戦後の、いわゆる特撮モノの一場面、怪獣が石油化学コンビナートのガスタンクやオイルタンクを口から吐く炎でつぎつぎに爆発させていくような映像が思い浮かんでしまってならないのだが、もちろん、この句はそういう句ではない。ただ、「錆びて」という把握は、コンビナートが戦後の特撮モノで象徴的な場所のひとつとして機能しえたこと――すなわち、それはコンビナートが高度経済成長にはおそらく日本で最も新鮮な風景のひとつだったということ――と無関係ではないのだろう。新鮮な風景としてあったはずのコンビナートが、「おほかた錆びて」しまったという感慨。そして、かつて昭和天皇の誕生日を意味した「みどりの日」、そして、いまはそうではなくなってしまった「みどりの日」という言葉から感じられる、時代の流れ。その流れを意識させるために、「て」という助詞による接続がある。

  ひと夏をかけて濡れたる宗教画     同

上の「ビーチボール」の句などと比べると、この句はより非現実的な描き方によって、現在に行き着くまでの、膨大なプロセスとしての過去の存在を把握させる。宗教画の表面を九十日かけて水がひろがっていくとかいうことではなく、宗教画がいまここに濡れた状態で存在している、という状況が生み出されるのに必要だったプロセスとして、ひと夏ぶんの時間の流れを思わせるのだ。本当にそれがひと夏ぶんであったかどうかは、そもそも確かめようのないことだし、その限りで、もはや問題ではなくなる。ここでは、それが、人間の思考がプロセスとして結びつけることが出来る範疇を大きく超えてしまっているということが重要だろう。宗教画の神秘的な印象が、その膨大さゆえに不可知となった因果の連続を思わせるのだ。

  かなしみの水面に薔薇を描きなぐる     同

「水面に薔薇を描きなぐる」という言葉は、なにか写実的な表現として捉えるならば、薔薇の咲いた水辺で風景を描くときに、現実の水面に映りこんだ薔薇を、絵の中の水面に描きこんでいく、その動きを写し取ったものと受け取るべきなのだろうが、もっと言葉のままに読みたいと、思う。
張り詰めた水面に青空が映っていて、そこにクレヨンか何かで、真っ赤な薔薇を描きなぐっていく。ひとつのファンタジーとして、そういう景があってもいいと思う。この句の意味は、かなしみを埋め尽くすように水面に薔薇を描くことが、むしろ悲しみをありありと感じさせる、そのことの描写にあるのだから、そう読んでもよいだろうし、積極的な理由として、そのほうがより強くかなしみを感じさせる。ほんものの水面のほうが、カンバスやスケッチブックなどに描かれた水面よりも広大で、ならば「描きなぐる」という動きもより大きなものになるだろうし、存在しない薔薇を水面に描いていくという行為ならば、描く人物がさまざまなもののなかから薔薇を選んだことに心の反映を見出すことが出来る。真っ赤な薔薇の絵で水面を埋めてしまいたいという衝動の裏に感じられるかなしみは、強く、激しい。

  日常に珈琲に虹這入り込む     同

この句から読み取れる、珈琲に虹が映ったり、あるいは冷たい珈琲の入ったグラスへ虹の架け橋が入り込んでいくような景を、現実にみいだすことは出来ないし、そのことは逆に、この句にそういった意味での現実をみいだすことができないことを意味しているだろう。この句の表現は、日常のなかに突如として現れる非日常的なものとしての虹の現出とその驚きを、珈琲という日常のものと虹とによって作り出される幻想的な景を見せることで、ありありと体感させるのだ。

ここまで句を読んできても、作る力にまつわる問いの答えは見えてこない。これは答えのある問いでもないように思える。そもそも、ここでいう「力」とはどこかから「やってくる」ものなのか、とか、そんなことを考え出すと、「作る力」という概念そのものが、レトリックによる幻想的産物であるような気もしてくる。仮にそうした言葉が、創造の営みを説明するときの概念として十分に機能するものだとしても、「作る力」と「読む力」とが、あたかも分離し対立している概念であるかのような言いについても、正しいのか、疑問がある。

ううん、どうなんだろう。

それが分かってなくても、結果として価値ある句が生まれるなら、作り手としてはそれでいいんじゃないだろうか。ただ、もし「作る」ということを説明する理論のようなものを見出したいのだとしたら、それには、人間の思考が言語によって表現を構成するときの、言語そのものの自律的な特質を分析することなのだろう。表現が現実のモノ以上に読み手に何かを把握させるものとして現出するとき、その表現はおそらく、そうした機能に導かれて編まれたものなのだと、僕は直感的にそう思う。