2011年11月 五十嵐義知 × 榮猿丸

 五十嵐義知の「底流」と題された短文は「懐かしい、いつか見たような景色」が「句の奥底を流れている」と語る。回想、あるいは直接の体験でなくともある種のノスタルジーから表現を作り出すということは、俳句に限らずあることだけれど、よくよく考えてみると、この感覚は興味深い。あるものごとが「懐かしい」という感覚は、「懐く」という動詞との語源的なつながりを考えても分かるように、そのものごとに親しみを感じる、すなわち、そのものごとをよく知っている、という感覚を内包している。
 そして、このことが不思議だ。僕らは、なぜ、よく知っていると感じるものごとを表現しようとするのだろう。

  足跡の深く残りし秋の浜     五十嵐義知

 「てのひらの水」二十句から。たとえば、この句の景それ自体は、多くの人が「よく知っている」と感じることができるだろう。砂浜に足跡が残されている、それが秋の浜ならばさびしいだろう、と思うとき、僕らはそうした情景や気分をこの言葉から初めて知るというのではなく、そうしたことを思い出して感慨に浸るのである。
 知られていないことを知らせるということが、いつも良い意味を持つとは限らないにしても、知らせることがなんらかの意味を持つということは、多くの人が肯定することのように思われる。しかし、思い出させることに意味を求めることは思うほど簡単なことではない。
 注意しなければいけないのは、ここで思い出される情景や気分は、僕らが忘れてしまったものではないということだ。忘れられてしまったものを思い出させることは、以前知られていたが今は知られていないことを知らせるということであって、知られていないことを知らせることのなかに含まれる。掲句の作用はそうではない。それは、言ってしまえば、僕らが確かに知っていてきっかけさえあればいつでも脳ミソから呼び出せるようなものごとを思い出させているというだけなのだ。だから、捉えようによっては句はそのきっかけにしかすぎないのであって、そうなるとそうした表現に対して論理的に意味づけをしてやることは難しい。
 もちろん、難しい、ということと、できない、ということとは違う。しかし、これらの作品に対して、無理に論理的な裏づけを与えるということに意味があるだろうか? 僕はこうしたことはそれこそあまり意味がないと思う。そもそも、すべての作品が理論的な背景を持たなければいけないことはないのであるし、こうした作品は、もともと論理とは別のところに良さを立ち上げようとしているからだ。だから、繰り返しになるが――

 (――ストップ、ストップ。たしかに、回想的な印象を与える芸術の存在をどのように認めるかというのは、五十嵐さんの作品のことを語る上では重要なポイントのひとつかもしれないけれど、これじゃあ後半の猿丸さんのほうとまるで繋がらないよ)
 (そうかな、何とかなると思ったんだけど)
 (いや、ダメだ。……そうだな、「懐かしい」という感覚はそのものごとをよく知っているという感覚を内包している、というあたりから、後半へのつながりを意識して、もう一回やってみてくれ)
 (――OK、わかった)
 (じゃあ、いくぞ。――ワン、ツー、ワン・ツー・スリー・フォー……)

 ここで興味深いのは、僕らはそうしたものを描くことを、どうやって表現として成り立たせるか、ということだ。

  抜け道にきつねのかみそりゆれにけり     同

 「きつねのかみそり」と八音のリズムが、「キツ・ネノ・カミ・ソリ」と四拍子のリズムをつくり、「ゆれにけり」にも「ユレ・ニケ・リ×・××」というリズムを与えているようだ。つまり、「きつねのかみそりゆれにけり」はダム・ダム・ダム・ダム・ダム・ダム・ダッ・ウン、というリズムにのっている。この句に限っては、字余りが生み出すこの弾むようなリズムに良さがある。
 たとえば、「抜け道にきつねのかみそりがゆれる」とするだけでも、この句の魅力が大きく損なわれる。抜け道にきつねのかみそりが揺れるというその景自体は、ありふれたものだ。何が言いたいのかといえば、この句の魅力はむしろ内容ではなくその表現にあるのであって――

(――ダメだ。おかしいな。表現は内容とともにあるんだから、表現に魅力があるとすれば、それを内容から切り離して考えることは出来ないはずなんだ。句の内容を変えるには、表現を変えるしかないんだから)
(だけど、その考えを突き詰めていくと、究極的には「抜け道にきつねのかみそりゆれにけり」の魅力は、「抜け道にきつねのかみそりゆれにけり」それ自体によってしか伝えることができないってコトになる。だったら、評はなんのためにあるんだ)
(評は、読むという行為の存在証明だよ。評されることではじめて、読まれた、という事実が、残るものになる。そして、もし、読むという行為がまったく存在しなければ、作品はほとんど存在しないに等しい。わかったら、ほら、もう一度、「この句に限っては、字余りが生み出すこの弾むようなリズムに良さがある」から)
(了解)

 この句に限っては、字余りが生み出すこの弾むようなリズムに良さがある。そして、まさにこのリズムが、この句の中の「ゆれ」を体現している。「抜け道にきつねのかみそりがゆれる」とするだけでこの句の魅力が損なわれてしまうのは、それではこの句の描く「ゆれ」のリズムが失われてしまうからだ。

  邯鄲や暗きところに響き合ふ     同

 秋の夜、虫が暗闇で鳴いている声が重なり合って、響きあっているという情景自体は、やはり僕らがよく知っているものだ。その情景をいかに再現するか。ここで使われているのはロシア・フォルマリスムによって理論化された異化の手法だ。ものごとを、初めて見たときのように、ありのままに把握すること。この句における「暗きところ」は決して何かをごまかすための言い回しではない。そうではなくて、その空間を僕らは「暗きところ」としてしか知覚できない、その知覚のありのままを表現するための言葉としてある。

  手に置きし手の爪ひかる良夜かな     同

 手の上に手を置いている。上に置いたほうの手の爪が光っている。そんな十五夜である、とまあ句意はこんなところだ。これも「手に置きし手の爪ひかる」という言い方の、わかるけれどわかりにくい、というところに異化の手法が発揮されている。異化は、読者を立ち止まらせる。そのことで、ものごとについてもう一度考えさせる。月明かりにぼんやりと照らされているかのような、どこかぬらっとしたかがやきの質感が、この表現によって巧みに再現されている。

 榮猿丸の「句会の可能性」と題された短文は、ビートルズがライブをやめてスタジオにこもった結果、バンドの後期の数々の名作が誕生したということを踏まえたうえで、ライブ的な句会ではなくスタジオ的な句会が持つ可能性・実験性に期待を寄せている。
 ビートルズの「後期」が、いつからいつまでを指すかということには諸説あるようだけれど、ここでは文脈に従ってごく大雑把に、一九六六年八月以降テレビ出演以外でのライブ活動を休止してから七〇年に解散するまでを「後期」と解釈した上で、六七年のアルバム”Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”を例にとって考えてみようと思う。
 史上初のコンセプト・アルバムと称されることもあるこのアルバムは、ポール・マッカートニーの発案により、アルバム全体がサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドという架空のバンドのショウであるかのように構成されている。そして、それぞれの楽曲のレベルでも、”Being For The Benefit Of Mr.Kite!”では速いフレーズのオルガンを入れるためにテープスピードを半分に落とした上でオルガンを弾き、再生時に倍速にしてミックスするなど、スタジオでしか出来ない実験をしたり、”A Day In The Life”では、スタジオでマネージャーが冗談で鳴らした目覚まし時計の音をそのまま曲に入れてしまったり、「動物向けのレコードを作っていない」という、これもポールの発言によって、すべての楽曲が終ってから約8秒にわたって、犬だけにしか聞こえない2万ヘルツの信号が録音されていたり。
 リンゴ・スターは後のインタビューで、このときの模様を「オレたちはスタジオに篭もりきりだったけど  まずベースを弾いて次々に音を重ね合わせていったんだ 何週間もかけてじっくりとね  誰かがアイデアを出すと即 実行!そこがよかったね  アイデアはいいか悪いかじゃなくて早い者勝ちだったな」と語っている。
 作品としては確かに「サージェント・ペパーズ」よりもっと後の「アビー・ロード」なんかのほうがずっと評価が高いけれど、スタジオの可能性・実験性がもっとも発揮されていた――それを暴走と捉えることもできるかもしれないけれど――のはこの時期であって、僕らが句会を考える上で参考にするべきは、むしろ「サージェント・ペパーズ」の頃のビートルズではないだろうか。とくにビートルズの場合は、後期も終わりごろになるとむしろメンバー間の不和が目立つ。可能性や実験性に満ちていても、長続きせずに解散、なんてことでは話にならない。
 それに、ヒット・チャートには載らなくともライブをやればスタジアムが満員になるという、グレイトフル・デッドのようなバンドもあることにはあるから、どちらがよいかというのはそれぞれの表現者によるところもあるだろう。
 ただ、この作品「コインロッカー」を見ると、これはまさしくコンセプトを持った連作であって、やはりスタジオ型の作品なのだろうと思う。二十句の通奏低音は語り手と「汝」との関係だ。このサイトの10月26日付けの「よむ」のコーナーで取り上げられている「汝が腿に触れジーパン厚し夕薄暑」も含めて、二十句のうち計三句に「汝」の語が入っている。そして、その発音は、俳句の韻律に即して読むという前提に立てば、すべて「ナ」に統一されている。「汝」の語が入っていない句でも、語り手とある女性との恋愛関係を髣髴とさせるものが数多く見られる。

  ビニル合羽に透くるよこがほ合歓の花     榮猿丸

 透明なビニル合羽を着たヒロインというと、僕の中で個人的に思い出されるのは、ピエール・コラルニック監督の1966年の映画『アンナ』で主演のアンナ・カリーナ扮するアンナがビニル合羽を羽織ってパリの街中を歩いている姿だ。そしてやはり個人的に、この映画のアンナ・カリーナは、彼女の夫でもあったゴダールの映画のアンナ・カリーナよりも魅力的に思う。いや、別にゴダールの映画のことは今はどうでもよいのだけれど、言いたいことは、ビニル合羽の似合うヒロインって、いいな、ということ。そして合歓の花のあのふわふわしたまつげのような感じと「よこがほ」との、この取り合わせが「汝」の繊細な表情を浮かび上がらせるようだ。

(思いつきで『アンナ』なんてマイナーな映画を引っ張ってきたけど、大丈夫かな)
(うん、それはいいと思うよ。言いたいことは言えてるわけだし。それに、当時のアンナ・カリーナの魅力自体はある程度上の世代の人たちにはそれなりに共有されているだろうしさ)

  髪洗ふシャワーカーテン隔て尿る     同

 お風呂と洗面台とトイレがまとまっている、いわゆる三点ユニットバスでの景だろう。マンションの一部屋か、あるいはホテルの一室か。シャワーカーテンの向こうでは「汝」が髪を洗っている。こちら側では、語り手が用を足している。あの薄っぺらいカーテンたった一枚を隔てて、女は裸であり、一方で男は性器をむき出しにしている。それが許されるのは、よほど近しい間柄に違いない。
 だけど、二人のしていることは別々で、このシャワーカーテンによって世界は隔てられている。この隔絶が、二人に別れが忍び寄っていることを予感させる。

  泣くなよと抱く柘榴くふ手を拭ひ     同

 この二十句に描かれている「汝」は、さんずいに女と書くその字のとおり、何度も泣く。でもそれは、彼女を「汝」と呼ぶ語り手のせいでもある。いや、別に彼女を「汝」と呼んだことが問題なのではないのだけれど。
 とにかく彼女は何度も泣き、二人はそのまま別れることになる。
 そういえば、柘榴と泪と男と女から思い出されるのは、『ユリイカ』に載ったあの句。

  僕だけが君を泣かせられる 石榴     山口優夢

 だけど、「泣くなよと」の句の男は、「僕だけが」の句の男とは違って、なんだか困っている。ポーカーフェイスだけど、内心弱っているという感じだ。そして、そこがなんだか憎めない。

  ゆく秋やちりとり退けば塵の線     榮猿丸

 二十句のなかには、別れのときの情景や感情を直接的に表現したものもあるのだけれど、僕はそのなかにこの句を入れ込んだところにスタジオ型の作品の妙味を感じる。
 この句は、単体では心理描写の方法よりも、むしろ「ちりとり退けば塵の線」という発見とその言語化のあり方によって評価される句だと思う。しかし、この「コインロッカー」の中では、ちりとりと塵との関係性が、女と男との関係性であるかのように思えるのだ。
 それを思わせてくれるのはなにも連作のほかの句ばかりではない。この句にもそうした要素は入っている。それが「ゆく秋」という季語だ。この季語のイメージが、連作のこの句の配置とあいまって「別れ」のイメージを作り上げている。
 ここでまた思い起こされるのが「サージェント・ペパーズ」だ。世界初かどうかはともかく、このアルバムは確かにひとつのコンセプト・アルバムであるように思われる。しかし、この作品に収録されているジョン・レノンが書いた曲のいくつかは、どうやら実のところアルバムとはまったく無関係に作られたものらしいのだ。しかしそれらの曲はアルバムの雰囲気によく調和している。
 似たことがこの句についても言えるのではないだろうか。連作にストーリーやテーマを求めるときには、それにあわせて作る句というのが確かにある。しかし、一方でそこにそれとは全く無関係に作られたものを、思いつきで組み込んでみたりすると、意外な化学反応が起こるということがある。
 「ライブ」型の句会で出す句は、やはりそれぞれが独立して評価される。いわゆる挨拶句など、その場で評価されることを狙ったパフォーマンスの面白さがある。一方、「スタジオ」型の句会には、「これはどこかで使える」というものを見つけ出す意識が共有されているはずだ。「スタジオ」型の句会というのは、おそらくは、信頼のもとに集まった、作品づくりという目的意識のある句会だから、メンバーの意向しだいでは、あらかじめ作者を明かしたうえでそれぞれの作者の句としてその句が作者にとって「使える」か否かを評価しあうといったことも出来る。
 こうしたことに対して、俳句についての古典的な価値観の持ち主は、否定的な見解を示すかもしれない。俳句は挨拶なのだから実験的作品などというものを俳句で造ろうとすることが誤りだ、とか。
 たしかに、そうした俳句は理念としてあってもいいと思う。それらはこれまで確かにある豊かさを保って存在してきたし、そのことはこれからも変わらないだろう。しかし、理念ではなく形式――「形式」という言い方がなお束縛的であるとすれば「手法」――としての俳句には、それとは別のあり方、芸術表現としてのありかたを求めることが出来る。そして、俳句をそうした手法として捉えるとき、前面に出てくるのは作家性だ。俳人という言葉が理念としての俳句の担い手により似合うとすれば、手法としての俳句の担い手により似合うのはただ、俳句作家という言葉だろう。この意味での俳句作家は、俳句全体の伝統よりも作家自身に内在する根源的な衝動――あるいはそれを「底流」と呼ぶことが出来るかもしれない――に意識的だ。彼らにとってはそれを表現する手法をいかに更新し続けるかが問題になる。「ライブ」型にしろ「スタジオ」型にしろ、俳句作家のあり方により沿った句会のあり方は、彼ら自身によって模索されながら、今まさにいくつかのかたちを得ようとしている。

(――こんな感じでどう?)
(まあ、それなりに収まったって感じだな。ところで、テーマが俳句の製作過程でしかも猿丸さんがスタジオの比喩を使っているからって、スタジオでのバンドの会話風に評論の書き手の思考過程を挿入するっていうこの書き方はちょっと読みにくいんじゃないか?)
(でもこれ、それらしい雰囲気を出すためにわざわざゴダールの『ワン・プラス・ワン』を観たりもしたんだぜ)
(『ワン・プラス・ワン』で観れるのはビートルズじゃなくてローリング・ストーンズの録音風景だけどな)
(あの”Sympathy For The Devil”が好きなんだよ。ちゃんとビートルズのスタジオでの会話録音も聴いたしね)
(努力の方向がまちがってないか……まあ勝手だけど)