関 「小熊座」からですね。
野口 まだ迷ってるんですけど…。これにします。
凍星や孤立無援にして無数 高野ムツオ
(「小熊座 3月号」2012)
野口 結社誌「小熊座」自体が、東日本大震災を受けた宮城の句誌なので、必然的に震災の句が多いんですけど…
関 主要同人の人も津波で亡くなっている。
野口 なので、この句も自然と震災を意識せざるを得ない気もします。キズナ、キズナといいますが、孤立無援の人たちがたくさんいて、それが無数にある。それから、無数っていうだけで、いっぱいあるというだけじゃなくて、カウントされないっていうイメージもあるかなって思って。そのさみしさみたいなものが「凍星」でうまくまとまっている感じがしました。
関 カウントすらされないというさみしさは、「孤立無援」という単語が一手に担っている。それで「凍」が「孤立無援」の、「星」が「無数」のそれぞれ暗喩になってしまっているから全体で言い尽くしている感じが。
野口 孤立無援っていう状況に、誰でもおちいる可能性があるって言っているのか、ある意味誰しもそうで、そういう人たちがいっぱいいるから、孤立無援じゃなくなるってところもあるのかな。
関 これは被災して仮設住宅に入ってバラバラになってる人が大勢いるという状態でしょ。
野口 なんかそう読むと、さびしすぎる気はするんですけど・・・
杉本 これは震災がベースになってると読ませられると、なんというか、やや月並みな気がするし、かつ震災を外しちゃうとそれはそれで当たり前ではというところはあるかな。それから孤立無援という言葉がいまひとつ紙に沈んでいない感じがしました。孤立無援を生かすのは結構難しいよなあと思いつつ。普通の意味で、言葉の概念というか意味が強い気がする。
野口 近いっていうかそのまんまなんですけど、冷たさとかがさらに感じられる効果はあるのかなあとは思って。
神野 分かりやすい句ですけど、私はわりと好きですね。これ(「小熊座 3月号」)読んでみると、全体で、やっぱりこの句かなあという気もして。主役の句ですね。
野口 冬の冷たさ厳しさいろいろあるんでしょうけれど、救いがないからこそ救われるというか・・・
神野 これは、最終的には、凍星の句として読みたい感じはしますね。もちろん、震災詠としても読めるんですけど。
野口 凍星それぞれが孤立無援。
神野 そうそう。凍星に対して、そういう愛情を働かせてもいい。凍星それぞれの孤独に心を寄せるというのは従来のロマンチシズムですけど、でも「孤立無援にして無数」というぐいぐい来る言い方は新鮮です。
関 心の状態とか認識の変容というのが主題になってて、凍星自体は昔からあったけど、現在は凍星はこう見えているという季語の中身を更新した句ですよね。
神野 そう、そういう魅力がありますね。
野口 凍星の句の最新バージョン。
杉本 なんかキーワードが出ましたね。「季語の魅力の更新」。これは俳句をやってる人じゃないと絶対出てこない。笑
神野 「指さして寒星ひとつずつ生かす」だと上田五千石で、「ことごとく未踏なりけり冬の星」だと高柳克弘。そのラインに連なる句だろうなって気がします。
野口 たしかにこの3つ似てますね。
神野 うん。季語を踏まえながらそこに自分の今を重ねる、自分の凍星を重ねるんでしょうね。
関 これはちょっと意味内容が季語なかったら成り立たない句ですよ。
野口 そうですね。
神野 「にして」のあたりが、さらっと出来てしまってる感はあるんですが、「孤立無援」という言葉の俗っぽさ、非情さみたいなものが、逆にいきている気がします。
杉本 孤立無援がどうしても気になるなあ。なにか、意味としての情がすぐ来る感じがある。わりと直接的なレベルでね。
神野 それはそうですね。
関 この作品は震災発生からもう何か月も経ったあとの句ですからどうしても体験が内面化していて心の状態に着目する句がわりと並んでいるんですよ。
野口 たしかにそういう句は多いですね。
神野 でも隣の句は結構好きですね。「蝋梅にぐずらもずらと己が影」。
杉本 ぐずらもずらっていうのは、流通している言葉なんですか。
神野 いや、初めてみました。
関 東北の方言でこういうのがあるのかもしれない。(*後で検索したら仙台弁らしいですby関)
野口 あーなるほど。
神野 ぐずぐずしてるんじゃないわよ、みたいな。ぐずらもずらしてるんじゃないわよ。
関 誠実だけど鈍重みたいな。
神野 もし既成の言葉なら、うまいこと入れましたね。開発したオノマトペだとしたら、蝋梅っていうとろんとしたやわらかい美しい花にたいして、自分の影がぐずらもずらという、愚鈍な感じ。なんか、影自体が生きてるみたいな感じがしますね。
関 これ東宝の怪獣映画でグズラというのとモズラというのがいてですね、ってそういうことじゃないですよね。
野口 ゴジラ・モスラ。笑
杉本 おっと凄い字面が目に留まりました。これはなんですか?「魔鬼山は魔鬼女の乳房雪を被て」。
神野 魔鬼女ってなんだろう。
杉本 そもそもこういう山あるんですか。
野口 山の形、なんじゃないですか。
杉本 あ、そうかそうか、まさにそういうことだね。(※この辺全然知らないまま適当に話していますが、宮城県石巻市の牧山というのがあり、『石巻市史』を孫引きすると坂上田村麻呂が夷賊征服後東奥鎮護のため、陣中護持の聖観音を祀った。後にその聖観音を本尊として、天台宗梅谷寺が建立され、魔鬼山を牧山と改称した。「魔鬼女」は賊首の妻ということらしいです。by関)
関 最後の「月上るえんずのわりの声がして」って分かります?
杉本 いやあ分かんないね。
神野 「えんずのわり」ってなんだろう。東北特有のものなのでしょうね。とか適当なこと言って。(笑)(「月浜のえんずのわりは、宮城県東松島市宮戸の月浜地区に伝承される小正月の鳥追いの行事」。重要無形民俗文化財でした。津波の害の大きかった地域です)。
杉本 こういう立ち姿意外と好きですね。「村一つ消すは易しと雪降れり」。
野口 でもこっちの方がありがちのような気がしますけどね。
神野 うん。でも、「易しと」って「と」でつなげてるところがいいですね。ここで、雪に意志が生まれる。
関 これ「雪降れり」なので、雪景色で雪で覆われて村の姿が見えなくなったという句だと思うんですけれど、津波で根こそぎ消えちゃった村があるわけでしょう。それを踏まえてこれを読んだら、雪で消えた村はよみがえってくることができるけれど、その津波に消えた村はよみがえらないという悲しみがより際立ってくる。
神野 なるほど。そう読むといいですね。
関 村一つ消えるとかそういう句わりとあったんですよ。震災の句で。
神野 私は「死してなお雪を吸い込む鰯の眼」もかなり好きですね。
杉本 ああ、これも良いですね。この思いの深さ。
神野 そうですね、鰯の眼って死んでるけれど、その中に雪が吸い込まれていくような深さが、たしかにある。
野口 死んだ鰯になにかを見るっていうのはパターンのような。「木枯や目刺に残る海の色」(芥川龍之介)とか。
神野 だから、この句のポイントは「吸い込む」、だよね。どんどんそこに消えてどこかへ行くような。「死してなお」ってちょっと押す言い方でくどい気もしますけど、「吸い込む」に力を込めるためには、はたらいている。
関 ちなみに前半はどうですか。
野口 作品のタイトルは「根元」で、この「根元のみ残りしものへ冬の月」から来ていますね。
関 ああ、私もなんか似たようなの作った気がする。
神野 どんな句ですか?
関 具体的には思い出せないけれど、被災地の表面的な描写ってなるとどうしてもこうなる。
神野 それは切り株とか残った走り根とかじゃなくて、「もの」だからみんなそうだってことですよね。あっ、この「冬空へ我も巌と亀の首」好きですね。無理やろーみたいな。笑
関 「荒星が喉に閊えし噎びよう」、これはムツオさんご本人も本当に喉がお悪いらしいですが。
神野 誰かがゴホゴホやっているときに、それを荒星が喉につっかえているんでしょう、きっと絶対そうでしょう、みたいな断定。
杉本 荒星っていうのは季語ですか?
神野 季語であるんです。ちょっと素敵でしょ。
関 ただ季語としてはちょっと情緒が強すぎて使い方が難しいものではありますね。
杉本 荒星ってどういう星なんですか?
関 冬にはっきり見える研ぎ澄まされたようなきつい光の星です。
神野 なので、この句くらい書くと、荒いっていうことが働きますよね。美しいって側面だけじゃなくて。
関 体内感覚としての荒い。
神野 そうとう苦しそうですしね。
関 ムツオさんは震災起きてからずーっと普通の生身の人間のサイズで震災と向き合っているから、さすがにこちらも付き合うのがきついというか、そう斬新なものが出なくなってくる感じがしますね。
野口 震災詠としては「車にも仰臥という死春の月」がよく引用されますよね。
関 生身の普通のスケールの人間として見てその悲しみと物凄さを感じ取っているというのではああいう作りになるんでしょうけれど、なんかもう一声欲しいなっていう気がしてしまう。私も高山れおなさんから震災詠は物足りなかったとはっきり言われてしまったのですが。
野口 詩客の日めくり詩歌 俳句ですね。
関 現地にいた人間だとめちゃめちゃになっているものをどうにか処理しなければならない訳ですよ。
杉本 しかしそういう意味でいうと「白梅や天没地没虚空没」(永田耕衣)、あれは本当に見事だな。ああいう一撃必殺をやられると、ただただすごいって思っちゃう。
関 その句があるから同じことはできない訳ですよ。
神野 そういうことでいうと、この「凍星や孤立無援にして無数」も、「にして」あたりが分かりやすくなっていて、それが良くもあるのだけど、ちょっと弱いところでもある。無援と無数が対応してるねってところを押していくとまた違う句になるのでしょうね。ちょっと意味で書いてるところはあるかな。それを踏まえた上で好きな句ですが、他の名句と比べると「にして」だと、押しが弱いかも。
杉本 わりとバランス感覚が取れていて、そこがなにか物足りない印象になる。
関 震災詠もうとするとどうしてもそうなるんです。
杉本 さっきの「死してなお雪を吸い込む鰯の眼」、この「死してなお」って言い方はちょっと。五七五の、五っていう音を感じてしまうな。詩の行として、「雪を吸い込む鰯の眼」はそのまま使えるけれども「死してなお」はかなり手を入れなければと思いますね。
神野 まあ、「なお」はなくてもいいんですけどね。「なお」って言いたい気持ちが震災後なのでしょうか。だとしたら、あまり歓迎する事態じゃないなという気もします。もうちょっと非情でいいかなって気もしますけどね。でも、高野さんの句って愛にあふれた句ですよね。震災後ではなく、高野さんらしさ、かもしれません。
関 成仏できない仏が周りにひしめいている中で詠んでいる句なので、これはもう「死してなお」は動かしがたいでしょう。
神野 難しいですよね、震災の俳句っていうのも体験のレベルが違うから、分かるひと分からないひとが出てくる。みんなに分かる句っていうのが実現できれば…。
関 みんなに分からせようとすると新聞の見出しになっちゃう。
神野 まぁそこまでいくとあれだけど、たとえば高野さんの「車にも仰臥という死春の月」あたりは俳壇全体に理解された句ですよね。
関 あれはニュースなんかでそういう車がひっくり返っている映像をみんなも見たんでしょうけれど、それプラス車に対するアニミスティックな共感という俳句的には俳人が非常に好みそうな回路を通して出来上がっているので。
神野 論じやすい句ですよね。
杉本 (小熊座のページを繰りつつ)神野さんは佐藤鬼房顕彰全国俳句大会に行ってきたんですか?ああ選者におられますね。
神野 そうなんです、ジュニアの部の選句をして、シンポジウムで佐藤鬼房っていうひとの晩年の俳句について喋って、当日投句の俳句をみんなの前で公開選考をしました。
杉本 場所が変わるだけでメンバー同じって感じがしますね。こっちで会ってるひとが多い。笑
関 佐藤さん照井さんは小熊座の人で向こうの人ですが、あとはそうかもしれませんね。
神野 そうだ、照井さんの句集があるんです。
関 「双子なら同じ死に顔桃の花」って照井さんの句でしたっけ。
神野 はい、私は震災の句の中で、あの句が一番だと思ってます。
関 「なら」がちょっと手練れの感じがするという話もありましたが。
神野 いや、むしろ「なら」の非情さが良いんですよ。手練れとかではなく、この句においては「だったら」という意味が大切なんです。双子だったら同じ死に顔だ、なんてすごく非情ですよね。決定的になにかが欠乏している。そういう、むしろ雑な言い方をあえてしていることによる、この現実をどうしようもないという感覚、この二人をもうどうしてあげることもできない訳じゃないですか。それを突き放している感じが「なら」にどうしようもなくあらわれている。で、女の子っていうのが桃の花でわかっちゃうところが苦しいですよね。
関 上田信治さんはネクロフィリアと取ったんでしたっけ。
神野 そうともとれなくはないですけど。まぁ桃の花とくればね。
杉本 どういう方なんですか?
神野 照井翠さんという方は、釜石の学校の先生をされている方で、被災地の方なんですけど、自分で俳句を作って、去年もいろんなところに俳句を出されていました。その中でも話題になったのがこの「双子なら同じ死に顔桃の花」です。
関 『俳句 3月号』で高野ムツオさんと小澤實さんが対談してその時に話題になって注目されたっていう。
杉本 いや、これは震災とかそういうことを一切除外して読みたいですね。そしたら、良い句ですよ。震災入れちゃだめですよ。
関 でも、震災なしで読むとふつうのきれいなというか、それこそネクロフィルな句になっちゃうんじゃないですか。
神野 でも震災も込みで、そこから普遍的に読める句だと思います。
関 読みとった値が全然別なところになりがちな句ですよ。
神野 でもたぶんね、照井さんは鎮魂の気持ちを込めて詠んでいるんですよ。前後を読んでいただくと分かるんですけど、本当に優しい先生なんですよ。愛にあふれていて。でもなぜか、時々、ひょっとこういう句が出来ちゃう。
関 この「脈打たぬ乳房を赤子含みをり」はだめだめですよ。
神野 こういうのはもうだめだめなんです。実際に見て作ったんでしょうし、見たら衝撃を受けると思うんですけど、こう書かれちゃうとちょっと。
関 見ないでできちゃう上に、どや感になっちゃうという。
杉本 震災から何百年何千年と経って一切切り離されてからこの双子の句があると、異様な感じがしますね。ネクロフィリアと着地させる必要もない。このまま受け取ればいい。
神野 照井さんは、ストレートしか打たないタイプ。あたるとホームラン。今回表で取り上げられる俳人は高野さんで、これからもそれは変わらないでしょうし、私も高野さんの俳句は好きですけれど、照井さんにもしっかり注目していきたいですね。本当にそのまんま書いてる句とかもあるんですけどね。これとかもなんていうか怖い句、「苧殻炊くゆるしてゆるしてゆるしてと」。
杉本 これも震災から切り離して読みたいですね。なんだこれ、って感じで。
神野 こう書くと「ゆるしてゆるしてゆるして」っていうのがグルグル回る。
杉本 この一連の震災句の詩情というかモチベーションは、本当に俳句に助けられているね。もう、これで行分けで詩を書く同人誌もたくさんあるだろうけれど、その出来上がりの風景もありありと分かるけれども、それはもうこの五七五に頼ったほうがはるかに救われていいものになる。
関 定型の中で3回「ゆるして」を繰り返すと未来永劫許してもらえないという気がしますよね。
神野 そうそう、定型だからそうなるんですよね。そこにど真ん中の季語をつけてくるっていう。
杉本 これ、型なしで行分けでやられたらたまんないものが出来上がるんだろうな。
関 学校の先生っていう背景を知っている人だと、子供が大勢死んだんだろうということが感じられますけどね。
神野 生徒のお父さんやお母さんもかなり亡くなられたみたいです。
関 昼間だったから学校にいた子たちは助かったのか。
神野 そんなに海のすぐそばというところではなかったみたいですね。この「唇を噛み切つて咲く椿かな」とかも痛いですよね。
杉本 うーん、ちょっといきすぎかなあ。
神野 壮絶に書いている人であり、表にわーっと出てこないですけど、これからもどんな句を作るのか見ていたいなと思います。
杉本 ともかく五七五の威力を感じました。
関 ただ震災のあと五七五で詠んだものは大半残らないんですよ。悲惨な体験にたいして人間のスケール保ったまま悲しい辛いを感情のレベルで、あるいは見たもののレベルで対処しなくてはならないので、そうすると耕衣の「白梅や天没地没虚空没」の句みたいに別次元に行っちゃえる人はいいんですけど、人間としてある種まともな感性を持ったまま俳句やっているとどこまでいっても救われないで同じ悲しみばかり作っちゃう。そういうのは結局残らないんですよ。
神野 震災が起きたから変わったものがあるというよりは、震災が起こったことであらわになったものがいっぱいあるのかなって気がします。この現実を詠む力があるのか、これを詩にする力があるのかどうかっていうおのおのの地力もちろんそうですし、俳句でいえば季語のありかたとか、作者の社会的人格…たとえばどこに住んでるかっていうことが問われるのはなんなのか、とかね。今回、角川俳句賞を取った永瀬さんという人が「ふくしま」という作品を出しましたが、選考のときに、その人が福島じゃなかったらどうするんだという小澤實さんの発言がありました。で、そうだと信じて読んでいるという反応だったんですね。ということはやっぱり福島じゃなきゃ成立しない作品なのか。そういうものは、震災が起きたから発生した問題ではなくて、昔から俳句の世界に潜んでいたもので、それが露出したという気がします。それは詩もいろいろあるでしょうけれど。
関 その辺が一番シビアなのは短歌でしょう。俳句でも小説に比べるととても稚拙というかナイーブですけれど、要するに発話主体は作者本人だという素朴な信仰があって。新人賞の選考の中で女性だと思っていたら男性だってそれが結果に影響したりする訳ですよ。短歌の場合はもっとダイレクトに私性が関わって、住んでいる場所などテキスト外のことが重要になってくる。
神野 昔、角川短歌賞を取った人が、高校生の女の子だと思ってたら実はおじさんだったっていうので闇に葬られた事件がありましたね。それもそういうことですよね。私たちは何を読んでいるんだっていう。俳句や短歌を読みながらなにを読んでいるんだろう。
杉本 闇に葬られた人かわいそうですね。追悼したいね。
神野 今、何を書いているのか見せて欲しいですね。変わらず、女子高生の句を作ってて欲しいですよね。さて、このあたりで、みなさん、勉強会に行きましょうか(このあとの勉強会のために集まった4人だったのでした)今日はどうもありがとうございました!
(終)