2013年7月12日

commemorating the death
of Daisetz
avocado split in half

意訳:アボカドの二つに割れて大拙忌

アボカドはメキシコが原産の熱帯果実。鰐梨とも云うらしいが、日本においては季語ではない。日本で普及し始めてから三十年位しか経っていないこと(日本に入ってきたのは百年ほど前だが、普及しなかった。名句も作られていない)、国内で殆ど栽培されていないこと(奄美大島、沖縄県、愛媛県、静岡県、高知県、和歌山県等、温暖な地域で栽培されているが、生産量は輸入量の数十分の一にも満たない。アボカド用の「登録農薬」もないため、積極的な農家が少ない)、周年で出回ること(日本で消費される九割を占めるメキシコ産は周年で収穫、販売されるので季節性がない。国内産は冬が収穫期)、等が理由である。国内の生産量が数十倍になれば冬の季語として句に詠みはじめる人が増えるだろうし、それらの句から名句も生まれてくるかもしれないが、当面は季語として定着する見込みはない。英語圏においてもアボカドが周年で出回っているので、季語にはならない。但し、世界的には年間数百万トンも消費されており、英語のavocadoにはキーワードとしての力はあるように思える。

7月12日は鈴木大拙の忌日。彼に恨みはないが、彼が余りにも積極的かつ効果的に禅を世界的に広めたため、海外では、日本的なものは全てZenの観点で解釈されるようになってしまい、そういった日本観が定着してしまっている。華道、茶道、柔道、合気道、剣道、能楽、歌舞伎、日本料理だけに留まらない。最大の「被害者」はハイクである。確かに、俳句は認識の瞬間を詠む文芸であるが、海外ではその「認識」と「瞬間」がZenの色眼鏡で曲解されてしまい、禅的公案のようなものとか、禅的瞑想をするための導入句とか、悟りの瞬間を表す語句とか、ハイクについて(俳句についても)不思議な解釈が横行している。海外のハイキストたちがZenについて語るのをどれくらい聞いたことか。彼らに、日本では俳句が禅に関連して語られることは殆どない、と教えてあげると必ず驚かれる。

二つに割れたアボカドを見て、Zenに染まっている彼らは何を思うだろうか。「隻手声あり、その声を聞け」という公案を思い起こすのだろうか。二つに割れた瞬間に思いを馳せるのだろうか。それとも、何らかの悟りを開くのだろうか。ちなみに、作者の悪意はこれだけではなく、敢えてアボカドという果実を詠むことにしたのにも悪意がある。アボカドに含まれているペルシンは人間には無害だが、家畜が大量摂取すると死に至る。禅も間違えた分野に当てはめると……。

大拙の英語表記はヘボン式ではなくDaisetzが正しい。誰かの忌日を修することは、非常に日本的である。たぶん葬式仏教と民間信仰による「追善供養」の影響がある(実際、中国起源の盂蘭盆会は、中国では消滅し、日本でしか行われていない)。海外では記念日、事件、事故を修する。そのせいか、commemorating the deathという長い語句になってしまう(英語の方が大幅に長くなるということは、英語に対応する語彙がないということ)。

アボカドは生食される場合が多い。塩味か甘味のあるタレをかけてそのまま食べても良いし、サラダ、寿司、サンドイッチ、ハンバーガーなどに入れても美味しい。作者は、メキシコ料理屋でワカモレ(アボカド、トマト、玉葱、ライム果汁、塩、コリアンダー、チレセラーノを擂り潰して作られるサルサの一種)として食べることが多いが、最近、平松洋子の『旅して見つけたベトナムとタイ 毎日のごはん』を読んでいたら新たなマイブームが到来。通称「アボカドのアイスクリーム」。作り方は簡単。アボカドの果肉、コンデンスミルク、砂糖をミキサーで撹拌し、冷凍庫で冷やすだけ。お試しあれ。