2016年2月6日

春めくや坂の上なる寺の階

※階(はし)とルビ

備中高松城を水浸しにしてしまうという奇想天外な作戦により毛利方を追い詰めていた羽柴秀吉。彼の軍のもとに、一人の男が迷い込む。彼は、毛利のもとに向かうつもりの光秀の使者。闇夜で道を見失い、迷い込んでしまったらしい。一体なんの用があるのだ、と書状を取り上げ読んでみると、思いもよらぬことを知ることとなる。

――明智が織田を討った。

秀吉は、主君の死を悼み大きな声をあげて泣いた。すぐに彼は、自分の使命を悟る。天正10(1582)年6月3日深夜から4日早朝にかけてのことである。素早く毛利方と和睦を結び、光秀を討つために京へ舵を取ることとなる。そこからの動きも信じられぬ速さで、備中高松城(現在の岡山県北区)から姫路、兵庫を経て尼崎、そして富田(とんだ・大阪府高槻市)へと、わずか5日間ほどで150kmもの道のりを移動したという。

一方光秀はというと、6月2日に本能寺で信長を討ってから、坂本城に立ち寄り、その後瀬田の唐橋を渡って安土城へたどり着いた。この行程は3日ほどというから、彼が安土城に着いたころには少なくとも秀吉のもとに信長の訃報は届いていて、まさにいま備中高松城を出発しようとしていた時に違いない。光秀もまさかこれほどにも早く強大な軍が戻ってくるとは思っていなかっただろう。十分な備えもできぬまま勝竜寺城(京都府長岡京市)に入り、秀吉を迎え撃つこととなる。

6月13日夕刻、大山崎の地で相見えた両者は、円明寺川(現・小泉川)を挟んで対峙するかたちとなった。光秀軍の2,3倍もの兵力を誇る秀吉軍が圧倒的優勢であることは誰が見ても明らかであった。光秀の本陣が勝竜寺城であったのに対し、秀吉は宝積寺(ほうしゃくじ)に本陣を置いた。

さて、宝積寺であるが、別名を「宝寺(たからでら)」ともいい、JR山崎駅からしばらく天王山の急斜面を登るとたどり着く。なかなか良い眺めのお寺で、息を切らした来訪者を迫力ある仁王が出迎える。ここには、聖武天皇が夢で龍神より授かったという「打出」と「小槌」が大黒天さまとともに祀られていて、金運が授かる効果絶大のパワースポットとして有名なのだそうだ。バスツアーには必ず組み込まれるルート、と紹介までされている。ロケーションも相俟ってとてもご利益がありそうな気もする。ぜひお越しください。