2016年2月7日

史跡みな背景得たり鳥雲に

山崎の合戦。またの名を、天王山の戦い。
天王山の頂上に近づいてきたあたりに、「山崎合戦之地」と彫られた大きな石が置いてある。この場所は展望台になっていて、木津川・宇治川・桂川の三つの川が合流し淀川となる「三川合流」の光景を目下に、大阪平野と京都盆地を一望することができる。当時この絶景を堪能できたのは、この地を掌中に収めることのできた、ごく一握りの武将だけだったのだろう。この上なく幸せで、平和な気分である。

2016年2月7日

この碑の近くには、一本の松が植えられている。「旗立松」という名がついている。秀吉は、樹上高くに千成瓢箪の旗を掲げ、味方の士気を高めたのだという。当時のその光景を思い描いてみる。絶景を背後に、風に煽られ波打つ旗。裾野を統べているかのように、山の高いところで堂々と、輝きすら放っている。羽柴方はさぞかし勇気づけられたことだろう。秀吉の勝利を語るには欠かせない松である。いまのこの松は7代目のものらしいが、風格はいまも失われない。

軍勢をみても、本陣の位置をみても、圧倒的有利だった秀吉。負けを悟った光秀は、6月13日、こっそり勝竜寺城を抜け出し、近江の坂本城へ向かった。しかしその道中、伏見から山科へ向かう当たりの小栗栖の藪の中で、落ち武者狩りにあい重傷を負った光秀は、自害した。享年55歳。詩歌にも礼法にも精通したその博識を買われ出世し、丹波国を治めるにあたっては領民より名君として慕われた明智光秀の、初老を迎えてのなんとも寂しく虚しい最期である。