2016年2月8日

城跡に警笛とどく霞かな

旗立松の向かいには、大きな鳥居がある。天王山の山頂近くに鎮座する「自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)」、通称「酒解神社」の二の鳥居である。現在の酒解神社は、もともとが牛頭天王を祀る神社であったこともあり、それが語源となって、「天王山」と呼ばれることになったのである。つまりこの山は祇園神(=牛頭天王)の山なのである。どうりで、昨年7月、祇園祭の還幸祭で三基の神輿が八坂神社に戻ってきた時には、初めて見たにもかかわらずえも言われぬ感動や、懐かしさに似たようなものに包まれたわけだ。やはり心のなかに、牛頭天王に対する何かが宿っているのだろう。

こんないい加減なロジックはさておき、酒解神社にはとても珍しく貴重な神輿庫がある。というのも、一般によく用いられる校倉形式に対し、この神輿庫は板倉形式で作られており、重文として現存するものはここの神輿庫と奈良の春日大社にあるくらいであるらしい。しかも、春日大社のものは江戸時代のものであるのだが、酒解神社のものは鎌倉時代建立のものがいまもなお残っているのだという。こういう凄いものって、結構ひっそりと存在しているものなのだな、と思う。その気になればもっと有名になれるんだろうけれども、誰もそれを望んではいない。知る人ぞ知る、といえばそうなんだけれども、そういうのとはまた違う。わかってもらえるのかな……ただ、こういう在り方というのが、たまらないのである。

頂上まで登ると、そこには山崎城の遺構が少しばかり残っている。秀吉は光秀に勝利した翌7月、ここに山崎城を築き、大山崎を城下町として保護した。山崎城には天守もあったと言われる。二年ほど後には、大阪築城の本格化に伴い破却されたのだが、その後も城跡としてはちゃんと認識されていたようで、天王山山頂およびその周辺の住所は、「京都府乙訓郡大山崎町(字)大山崎(小字)古城」となっている。何か建物があるわけでもなさそうで、この住所を宛名に書いて手紙を送ることはまずないだろう。知られなくてもよい地名。でも、地名っていうのは郵便のためだけにあるわけでもなければ、行政のためだけにあるわけでもない。地名はその土地の記憶であり、顔である。その地を知るための一番の足がかりになるのは、何よりも地名。そういうことに気付いてからというものの自分の住んでいる土地をより一層愛することができるようになったし、旅をすることもとても楽しくなった。いまでは手紙を送る時に宛先の住所を書いているだけでもワクワクしてしまうほどである。

ただ、感慨にふけっていると時たま冷静さを欠いてしまうところがあって、山頂付近に残る山崎城井戸跡を見て、「名水で有名な山崎の地、さぞかし美味しい水が湧きでたんだろうな」なんて想像をめぐらせながら説明書を読んでいた。

「……山頂に掘られた井戸であることから地下水が湧き出るとは考えられず、雨水を溜めて利用していたのではないかと思われます。   大山崎ふるさとガイドの会」

そりゃそうだ。