2016年2月15日

春の夢舟にて渡る橋の横

国道171号線は、京都市南区の東寺(教王護国寺)から神戸市中央区の三宮駅までを結ぶ道路で、古代から中世における山陽道、近世における西国街道にあたる、近代以降における非常に重要な幹線道路である。「イナイチ」なんて呼ばれるくらいには近しい存在であるのだ。大山崎町内を通過する区間は距離で考えると僅かではあるものの、大山崎インターチェンジ(名神高速道路・京滋バイパス・京都縦貫自動車道。大山崎JCT併設)があり、また、淀川(桂川)の堤防上を通りそのまま大阪府(三島郡島本町)へと入ってゆく、などと結構印象的な場所でもある。大山崎インターチェンジの近くで国道は、羽柴軍と明智軍を隔てたあの小泉川を跨ぐ。短くて、ほとんど目立ちもしない橋だけれどもちゃんと名前がついている。「新山崎橋」。「新」があるのなら、「旧」なり「元」なりそういうものがあるはず。ホテルがよく自分の名前に冠する「ニュー」でもあるまいし。あれはもはや枕詞みたいなものだろう。

そもそも「山崎」という名前が文献に登場するのは『日本書紀』での白雉4(653)年の記述、「天皇恨欲捨於國位、令造宮於山碕」という部分であろう。「山碕」と「山崎」は同一とみてよく、「天皇」は孝徳天皇を指す。『日本書紀』のこの辺りの記述によれば、倭京に遷ることを皇太子・中大兄皇子が乞い、孝徳天皇はそれを退けた。しかし皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟を連れ倭飛鳥河邊行宮に行ってしまい、さらには高官をふくむ役人も多くが行ってしまった。このことを恨み天皇は、退座して山崎の地に隠居しようと「山崎宮」を作らせたのである。この際、

かなき着け吾が飼ふ駒は引き出せず吾が飼ふ駒を人見つらむか

という歌を詠んだとある(原文は万葉仮名)。皇太子と皇后との禁じられた恋愛(二人は兄妹)を詠っているという解釈もあるが、そうでないでせよ、寂しさと悲しさ、あるいは恨みに満ち溢れた歌であることは間違いない。

「山崎橋」が登場するのは、これから70年ほど後の、神亀2(725)年のことである(『行基年譜』。『扶桑略記』『水鏡』では神亀3年)。法相宗の僧侶・行基が布教のため大山崎の地に山崎院を、そして大山崎と川向かいの八幡とのあいだに山崎橋をつくったと言われている。長岡京遷都前の延暦3(784)年7月4日には、阿波・讃岐・伊予の3国に命じて山崎橋の用材を進上させている(『続日本記』)くらいに立派で重要な橋。この時には国の管理下におかれているのである。前に引用した『土佐日記』にも『「やまざきのはし」みゆ』とあり、これは承平5(935)年の出来事。とても有名なものだったのだろう。宇治橋、瀬田の唐橋と並ぶ日本三古橋の一つでもある。(山崎橋以外は現存)
ただ長保元(999)年の一条天皇の石清水行幸のときにはなくなっていて、船橋で渡河した(『日本紀略』)とされるなど、一度は廃絶してしまっていた、豊臣政権下において一時復活はしたようだ。しかしそれが失われてからというものの、今に至るまで再建はされていない。具体的にどの位置に架かっていたのか、詳しくはわかっていないようで、説もいろいろあるようだ。ただ、八幡市の側には「橋本」という地名が残っていて、その名の通り、山崎橋のたもとであったことを物語っている。橋本は、京と大坂とを結ぶ京街道の宿場町として近世では栄えていたようだが、これも明治33(1958)年に売春防止法施行により廃止となって、いまは京阪電鉄京阪本線の通る住宅街となっている。「橋本」駅前では最近ずっと工事をしていて、どうやらいまある踏切が廃止され、道路と線路とが立体交差することとなるらしい。この調子でこの場所に橋が架かればなかなか便利なのだが。

さて、新山崎橋の下を流れる小泉川。ここから少し下流に進めばもう桂川と合流するのだが、ちょうどその場所、小泉川の西側に桂川河川敷公園がある。それほど明るくない雰囲気の公園で、端にある公衆便所の横にひっそりと案内板が立っている。「狐渡し跡」。近世から渡船場として二十石舟も発着するなど賑わったここ、東海道の陸上交通に取って代わられ昭和11(1936)年に廃止となった。いまでは一時の賑わいが嘘であるかのように静かな場所だが、背景には京滋バイパスの高架橋、そして川沿いの方向には先ほどの国道171号線。どちらものべつ幕なしに車が走っている。なるほど、そういうことなのだな、と満足げになって、僕はその場を去る。