2016年2月18日

初蝶の来て国境のすこしむかう

そういえば「山崎」と言ったり「大山崎」と言ったり、どちらが正しいのか、はたまたどちらも正しいのか、そういったところを曖昧にしていた。もともと「山崎」と呼ばれている地域があり、この地域の中に山城国と摂津国の国境が引かれた。のち山城国が京都府、摂津国が大阪府のそれぞれ一部となり、これにより山崎の地も京都府と大阪府にそのまま分かれるかたちとなった。双方の山崎を区別するため、京都府の側を「大山崎」、大阪府の側を「山崎」と呼ぶようになったのだという。京都府側は隣接する二村と合併し「乙訓郡大山崎村」、のちに町制施行し「乙訓郡大山崎町」となり、大阪府側は「三島郡島本町山崎」となっている。こうやって歴史を踏まえてみると一筋縄にはゆかないのだけれども、だいたい「大山崎」といえば現在の京都府乙訓郡大山崎町域を指すことにして、「山崎」といえば昔の山崎地域(しばしばそれに加えて円明寺・下植野、つまり現在の大山崎町+大阪府三島郡島本町山崎)、文脈によっては島本町山崎地域のみを指す、という使い方をしているつもりである。そして僕のこの散歩は、話がいろいろと飛んでいくことはあっても、基本的に大山崎町内に限っている。

「山崎」という名前で有名なものの一つに、ウィスキーがある。サントリー山崎蒸留所があって、そこの蒸留所の原酒のみでつくられた「山崎」というウィスキーの知名度はとても高いだろうと思う。けれどもこの蒸留所の所在地は、大阪府三島郡島本町山崎。大山崎町内には無い。大山崎町民としてこのことを、ときたま残念に思ってしまうのである。また、近くにはサントリー京都ビール工場もあるのだけれども、これの所在地も大山崎町ではなく、京都府長岡京市調子。実際には敷地が大山崎町字下植野にも及んでいるのだけれども、まあ、ビール工場は長岡京市のものであって大山崎町のものではない。これも相俟って、大山崎町民としてはますます残念な気持ちになる。住所がどこであれ、近くにあれば同じといえば同じなのだけれども。町政についてあまり明るくない身である。よくないことだな、と反省。

他に「山崎」といえば、山崎宗鑑。『新撰犬筑波集』の撰者としても高名な俳諧作者であり、連歌師でもある。彼の名前も、ここ山崎に隠棲していたことに由来する。たまたまなんかじゃない。本名は範重といい、室町時代後期の人で、いってみれば戦国時代の幕開けとともに生まれてきたような人物である。9代将軍足利義尚に仕えていたが、第一次六角征伐、通称「鈎(まがり)の陣」中に将軍が没した際、彼は世の無常を感じて剃髪、入道となり山崎の地にやってきた。ここに、山崎宗鑑は誕生する。彼が住んでいた場所や、井戸の跡地はギリギリ島本町山崎にあって惜しいのだが(あくまで大山崎町に固執するつもりである)、連歌会の指導や講を主催していた冷泉庵の跡は大山崎町内にある。旧居からそれほど離れておらず、妙喜庵待庵とJR東海道本線の線路をはさんで向かいの位置の、天王山登山口にあたる。そこには

うつききてねぶとに鳴や郭公  宗鑑

の句碑や案内板が立っており、この句についても触れられてはいるのだが、その部分は「掛詞を巧みに使い、その手法は後の俳諧の基礎となった」と書いてあるだけであり、掛詞に対する詳らかな説明は無い。いやあ、カッコいいぞ、大山崎町文化協会。

少しばかり句に触れておくと、ホトトギスの力強いところと弱いところ、読み方を変えると正反対になってしまうところが面白い。仮に「ホトトギス」を「子規」と書くことにして、正岡子規に重ねあわせてみると、これ、正岡子規のことをいっているのではないか、なんて思ってしまうこともある。出来物が疼くぐらいならよかったのだけれどもなあ、結核だものなあ。