2016年2月19日

石放れば音のいくつも竹の秋 
※「放れば」・・・「ほれば」

大山崎町の端っこ、阪急京都線の線路と細い川にはさまれ、川の向こうは長岡京市、というようなところに「三浦芳次郎氏碑」が立っている。どちら様、と思って横の案内板を読むと、天保3(1832)年、大山崎に生まれた農家であるとのこと。

天王山を含む西山山麓は竹林が有名で、筍はここ大山崎を含む乙訓の名産である。ただ、昔から筍が食べられていたわけではなく、食用とされはじめたのは江戸時代後期。明治になってからは食料として注目され、乙訓一帯の竹林では筍の増産が計られた。ところがすぐさま生産過剰になり販売価格は下落、孟宗筍の竹林を当時有望とされていた茶畑に転換するほどに、農家は窮地に立たされることとなった。そんな農家を救ったのが三浦芳次郎。彼は阪神地方の青果商に働きかけ、販路を拡大することに成功、さらに、綴喜(つづき)郡(現在の所属町村は井手町、宇治田原町)や久世(くぜ)郡(現在の所属町村は久御山町)で産する梨もこの販路に乗せ流通させた。スーパーヒーローである。彼がいたからこそ、乙訓の筍が全国的に有名になったのである。これらの篤行を顕彰し、地元の有志や関係者の手によって明治26(1893)年6月13日に建立されたのが、この碑なのである。

本当に竹林だらけで、自分自身もむかしから竹に囲まれて生活してきたようなものなのだけれども、最近、自宅のまわりのあらゆる方角の竹林が伐採されている。前にも言ったように、家の裏の駐車場の側は住宅開発のために竹がバッサリ伐られ古墳が露わになっているし、それと反対側は反対側で、どうやら遺跡発掘調査のために竹をバッサリ伐っているようである。そこからもう少し先のところもまた竹が伐られていて、一体ここはこれからどうなってゆくのだ、と思ってしまう。古墳はもちろんだけれども、遺跡もそっとしておいたらいいじゃないか、なんてことも思うのだが、発掘調査であれば掘り出して分かることもたくさんあるだろう。でもひっそりとあるほうが遺跡らしいな、なんて思う。

「遺跡らしさ」なんてものがあるのか、ということだけれども、そういえば、遺跡に「らしさ」も何もあったものじゃないと思う。遺跡に当時の集落の様子を復元したものを建設しても、それは遺跡らしい光景ではなくて、当時の集落らしい光景だろうし、一概に遺跡といってもいろんなものがあるはずだから、「これがあれば遺跡」というものもないだろう。「ここ、人が集落をつくっていたらしいな」というくらいだったら何も古代の話にさかのぼらなくてもよいだろうけれども、江戸時代の集落跡を遺跡と呼ぶのもちょっと違う気がする。要するに、僕は遺跡に何かしらの幻想を抱いているだけなのだろう。

発掘調査をしている一角、端のほうに竹とは異なる木が茂った部分があり、そこはそのままにしてある。ここには「石倉神社」という小さな社があるのだが、ここもまた面白い。というのも、昔の人びとはこの社に「今年も豊作、無病息災で過ごせますように」と石を投げつける、投石信仰の神社であったというのである。なんとこの社はお祓いと禊を受ける社であり、人の身代わりであったと伝えられている。その後、お礼の本参りに小倉神社へと参拝する、というのが明治時代中頃まで続いたという。いまは近づけないように申し訳程度の柵があり、石を投げることはできず、手を合わせて拝む人がたまにいる程度。そもそも、ひっそりとし過ぎていて気付かずに通り過ぎている人も数多くいるかもしれない。こういうのがまたなんともたまらない。ひっそりとしている良さ、主張しない良さというのは必ずあるのだから、やっぱり遺跡も、竹なんて伐らずにそっとしておいてほしい。