2016年2月20日

土地の名のかくも雄弁なる日永

『蘭花譜』という版画集がある。104枚の蘭の絵が並ぶこの画集、さまざまな色や形の蘭が、それぞれの構図で描かれていて、絵としてでも、図鑑としてでも、ずっと鑑賞していられる。この画集は、昭和21(1946)年に300部限定で刊行され、うち100部は海外の大学・植物園に寄贈、残り200部が国内の研究者や好事家に市販されたという。
さてこの『蘭花譜』が一体何なのか、という話だけれども、これはここ大山崎の地で開発・栽培されていた蘭の記録なのである。そう、大山崎ではかつて蘭の栽培が行われ、蘭栽培のメッカとも呼ばれていたのである。

実業家、加賀正太郎(かが・しょうたろう)。明治21(1888)年1月17日に大阪市東区に生まれ、大正時代から昭和時代にかけて活躍した。ニッカウヰスキーの前身である大日本果汁の創業にも参画しており、筆頭株主でもあった。昭和29(1954)年に死期を悟った彼は、所有しているニッカウヰスキーの株式をアサヒビールの山本爲三郎に売却し、同年に喉頭癌のために鬼籍に入った。
彼は実業家として名を馳せていた一方で、趣味人としても有名であった。趣味として登山をしていた彼は、アルプス山脈ユングフラウの登頂を日本人として初めて果たしており、日本山岳会名誉会員でもある。また、若いころにヨーロッパへ赴いた際、イギリスのウインザー城を訪れた彼は、そこから眺めるテムズ川の流れの記憶をもとに、木津川・宇治川・桂川の三川が合流するここ大山崎に土地を求め、自ら建設の指揮をしつつ20年もの歳月をかけて大山崎山荘を作り上げた。実はこの「大山崎山荘」と命名されるまでも時間がかかっていて、加賀正太郎は建設途中の山荘に夏目漱石を招いた際、漱石に山荘の命名を頼んだという。漱石は、気に入らなければ使わずとも良いと断ったうえで、様々な案を手紙でよこしてくれたのだけれども、どれも採用することなく、加賀は「大山崎山荘」と名付けた。第三者である自分が「シンプル・イズ・ザ・ベスト」とフォローすることも躊躇われてしまうくらいに、贅沢過ぎる漱石の扱い方。このくらいの思い切りの良さがないと実業家ってやっていけないのだろうかと思ってしまう。
またこの大山崎山荘で、ヨーロッパで出会った洋蘭の美しさに心を奪われた彼はこの地で栽培しようと試みる。当時「洋蘭の神様」と称され、新宿御苑に勤務していた後藤兼吉をわざわざ呼び寄せたくらいだから、本格的である。山といい、山荘といい、蘭といい、趣味の範疇を超えた姿勢である。実際、蘭の栽培を成功させ、また、多くの新種を開発し、栽培した蘭の数は1140種にものぼるというのだから、ただただ舌を巻くばかりである。そして自分の愛した蘭を後世に遺すべく、104種を厳選して作り上げたのがこの『蘭花譜』なのである。

版木は大山崎山荘には残っておらず、太平洋戦争の際に失われたといわれるが、現在12枚ほどが見つかっているとのこと。一体、いまこの世に何枚の版木が残っているのだろうか。

ところでこの大山崎山荘、加賀正太郎の死後は何人かの手を転々とし、バブル経済末期には取り壊してマンションを建設する計画さえ持ち上がったという。これには地元住民が反対し、ここに救いの手を差し伸べたのがアサヒビール株式会社。企業メセナ活動として、ここを美術館として運営することとなった。平成8(1996)年にこの大山崎山荘は、「アサヒビール大山崎山荘美術館」となり、陶器が主とする山本爲三郎コレクションを中心とする美術館となっている。

この建物、川をはさんだ八幡の地からも眺めることができる。赤煉瓦を髣髴させる色合いの屋根は、天王山の山肌にあって目立ちつつも融け合う。さてさて、ちょっぴり訪れてみましょうか。