2016年2月23日

春コート風とまみえて引きかへす

20160223

西国街道沿いには大山崎町役場や大山崎小学校、中央公民館などが集まっている場所がある。近辺からは「百々遺跡(どどいせき)」が発掘されていて、河陽離宮跡へ山城国府が移る前に国府があったと推定されているらしい。ここから少し大阪方面に街道をゆくと、三叉路がある。何の変哲もない交差点であるが、よく見てみると角の家の生け垣に埋もれるようにして説明板などが立っている。説明によれば、この三叉路は久我畷(こがなわて)の端と西国街道(山陽道)が交わる場所だという。「久我」は「くが」ではなく「こが」なので注意してほしい。信金に行ったとき頭文字「く」で支店名を検索しても絶対に久我支店は見つからない。
写真はその三叉路を西国街道の側から撮影したもので、右側に入ってゆく道が久我畷である。西国街道とともに人びとの生活を支えてきた道で、秀吉に敗れた光秀が近江へ逃れるために通ったのもこの道。いまでは失われてしまった部分も多いが、ところどころ残っている部分はいまでも生活道路として人びとの生活を支えているようで、こういうところから時のつながりを感じてしまうのである。歴史というのは何も重たいだけのものじゃなくて、こういう何気ないところにもきちんと歴史が眠っているというのがいい。こういうことを考え出すと、世界中どこの土を踏んでもこういうことを考えてしまう。そりゃあ、退屈な旅行なんて存在しなくなる。
久我畷はここから鳥羽のあたりまでを繋いでいたらしい。鳥羽とはいってももちろん三重県の鳥羽市ではなく、京都市南区にある鳥羽である。だいたい、名神高速道路京都南インターチェンジあたりがそう。鳥羽街道があったり、上鳥羽口、なんて駅もあったりする。

「口」で思い出したけど、京都には「丹波口」や「荒神口」など口のつく地名がところどころにある。代表的なものは「京の七口」といって、ここから各方面へゆく道が伸びていた。都の出入り口のようなものである。秀吉の時代には御土居で都を囲んだが、出入り口のあたりは土塁が開いてあって、そこから「口」という名前が一般的になってきた、とも考えられている。

さて、縄手、とも書く畷は田んぼの畦道などといったような意味で、長い道。必要に応じて拵えられた道だからだろうか、畷の付く地名での戦いは多く、中でも高師直と楠正行が河内国で対峙した「四条畷の戦い」は有名であろう。久我畷はあまり足場のよい道ではなかったようで、馬などが足をとられてしまっていたようだ。

そういえば、天王山山頂の説明板を読んだときからずっと気にかかっていたことがある。
「1333年 山崎合戦、名越高家討死」
――聞いていないぞ。

調べてみるとどうも、この久我畷が舞台となっていたらしい。そしてそれは、鎌倉幕府が滅亡に向かう、ちょうど歴史が動いた時代の、一コマだったのである。