2016年2月24日

下萌の石に囲はれ行宮(かりのみや)

北条得宗家による得宗専制政治が綻びを見せ始めていたころ、天皇親政を理想に掲げ、また、自分の直系の子孫が天皇を代々継ぐために、後醍醐天皇は討幕計画を進めていた。元亨4/正中元(1324)年9月、一度は計画が露見してしまった(正中の変)が、うまく釈明し一切のお咎めを逃れた後醍醐天皇は、再び討幕計画を進めていた。

事態が動いたのは元弘元(1331)年。後醍醐天皇らの討幕計画が露見し、六波羅探題は御所の中にまで軍勢を送り込んできた。後醍醐天皇は女装をし、三種の神器をもって側近とともに京の脱出を試みた。このとき、花山院師賢(かざんいん・もろかた)は天皇の身代わりとなり、つまり天皇に変装し、京の鬼門の位置にあたる比叡山へと向かう。この作戦は功を奏し、てっきりこれを天皇だと信じ込んだ幕府は追撃の手を比叡山に向ける。この間に、後醍醐天皇らは南へ向かい、3日後には笠置山に至るのである。なかなかの謀略家、というより、行動力である。笠置山は、いまの京都府相楽郡笠置町(そうらくぐん・かさぎちょう)にある。相楽郡南山城村や奈良県奈良市と面し、三重県伊賀市もすぐ近くである。家康の伊賀越えのルートは笠置町よりもう少し北にあたるのだが、それにしてもよくこんなところを通って岡崎まで逃げ延びたものだ。「笠置」といえば、日露戦争などに参加した防護巡洋艦にもこの名前のものがある。もちろん、この笠置山から名がとられている。旅順作戦や黄海海戦に参加、日本海海戦では第三艦隊旗艦。笠置という名前だけでもこみ上げてくるものが多すぎるのだが、話が進まなくなるのでここで切り上げることにする。

後醍醐天皇が笠置山に到着して数日後、幕府側も比叡山に天皇がいないことに気づき、9月2日には笠置山を包囲。天皇側の兵は数の上では不利でありながらも地形を利用して善戦していたが、9月28日にはついに陥落。数日のうちに天皇や側近らは捕えられることとなった。この戦いでは、足利高氏(のちの尊氏)や新田義貞も幕府側として参戦している。足利氏も新田氏も祖先は河内源氏。幕府の御家人であることも全く不思議なことではない。

これと同じころ、周辺でも天台座主を経て還俗した護良親王が大和国の吉野で、悪党・楠木正成が河内国の下赤坂城(いまの大阪府南河内郡千早赤阪村)で挙兵していた。笠置山陥落後、吉野も陥落したが、下赤坂城はなかなか落ちなかった。正成の奇策に幕府軍が翻弄されていたのである。しかし一か月ほど応戦したあるとき、長期戦に耐えられないと踏んだ正成は、自ら城に火をつけ、自害したと見せかけた。ここに、下赤坂城は落城する。10月21日である。翌年、笠置山での一件により後醍醐天皇は隠岐島に流された。その後、正成は赤坂の城を奪還、元弘3(1333)年2月22日より、幕府軍に対し上赤坂城で平野重吉や弟の正季(まさすえ)らが奮闘したが、2月27日にここも落城。背後の山に備える千早城に戦いの舞台は移されることとなる。
閏2月5日、幕府軍は上赤坂城の勝利の勢いそのままに千早城に攻め入るが、勢いだけで勝てるわけもなく、片っ端からやられてゆく。そこで上赤坂城のときと同様に、千早城の水源を断ち兵糧攻めに切り替えるが、正成は城内に水と食料を予め大量に備蓄していたため、なかなか白旗を上げない。それでも幕府軍は、「いつか尽きるときがくるだろう」と辛抱強く待ち続ける。攻め入っても兵力の浪費につながるため、外では双六遊びや歌会、茶会などをしてひたすら敵の降参を待つのみである。時間だけが過ぎてゆくある日、正成は奇策を打ち出す。藁人形を拵え、それに鎧兜を着せ夜の間に城の周りに並べ、その背後に選りすぐりの兵を控えさせた。そして夜が明けて間もないころ、一斉に鬨の声をあげたのである。幕府軍はその様子から「ついに運が尽きて決死の作戦に出たか」と皆が次々に攻め入った。正成の側はそうやって幕府軍を藁人形の周りに集めると、一気に猛攻を仕掛け、幕府に大損害を与えた。過去に本格的な攻城戦の経験がほとんどない時代であるから無理もない。そういう意味では籠城戦を見事にやってのけた正成は天才的であったのだろう。わずか1000人ほどで、100倍か1000倍ほどの数の兵を相手に戦い抜いているのである。たった一つの城すらすぐに落とせない幕府、こういうことが討幕の機運を高めてゆく。

そんな折、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆国(ほうきのくに)の船上山(いまの鳥取県、大山にほど近い山)にて挙兵、幕府勢力を駆逐し、行宮を設置する。この船上山討伐の白羽の矢が立つのが、足利高氏と、お待ちかね、名越高家(なごえ・たかいえ/なごし・たかいえ)なのである。