2017年4月18日

花は葉に槍は遷都の火柱に

2004年に「豈」がリニューアルし「―俳句空間―豈」になったとき『無敵の俳句生活』でご一緒した高山れおな氏の紹介によって、私も同人として参加することになった。そしてこのタイミングで、俳句の表記を歴史的仮名遣いへと改めることにした。
2008年夏、高山氏から毎週発行のウェブマガジンを作りたいという相談があり「―俳句空間―豈weekly」が誕生することになった。準備期間がなく、すでに刊行されていた「週刊俳句」のレイアウトを借用した。今思えばかなりの暴挙である。
「―俳句空間―豈weekly」を発行していたのは 2008年8月から2010年7月の二年ほどの期間である。私も初期には佐藤文香の『海藻標本』や、田中裕明について長めの論を書いて掲載したが、自分で記事を書くことは次第に減っていった。
その間に私の身に起きたことを振り返ってみると、まず2008年の末に新卒以来14年間勤務した会社を退職し無職になった。妻の仕事のアシスタント兼主夫という立場をその頃の私は自任していた。
2009年度より橋本直氏が現代俳句協会青年部部長に就任し、私も以前よりは積極的に青年部委員としての活動に参加するようになった。同年夏に青山茂根、榮猿丸両氏と私の三名で haiku & meというユニットを発足させた。各メンバーが俳句と文章をセットにした記事を毎週ブログに掲載したが、他にも Twitter を用いた読書会などの活動を行った。
そして、同年末には『新撰21』(邑書林)が刊行された。これは当時40歳未満の若手俳人21名の各100句をおさめた合同句集であり、私の作品も収録された。翌2010年6月に第三回芝不器男賞の選考会が松山で行なわれ、私は対馬康子選考委員の推薦により奨励賞を受賞した。仕事も私生活も俳句も、すべてが大きく揺さぶられた数年間だったと思う。