2017年4月20日

ふところに替への筆ある柳の芽

2012年9月、堀本吟、大橋愛由等、岡村知昭の各氏と攝津幸彦に関するシンポジウムを行ない、翌2013年発行の「豈」55号に報告記事を書くことになった。その間に私の三度目の就職があった。
記事を書いてみようと試みながら、私は自分でも驚くほど、このシンポジウムについて、というより俳句について、何かを書きたい気持ちになれないことに気がついた。淡々とした報告なら書けるが、熱の入らない文章を書くことは苦痛でしかなかった。断ることも考えたが、私はなぜかそのときの自分の状況を書いてみようと思った。ただ、書き方には若干気を使わざるを得なかった。句作を中断しており、このまま俳句をやめてしまうかもしれない等と書くことによって、引き止めて欲しいのだろう、などと勘繰られるのは厭だったし、実際引き止められたくはなかった。もし俳句をやめてしまうのであれば、誰にも気にされることなく自然とそうなりたかったし、戻るのであれば平然と戻りたかった。そのため、あくまでも一時的な方便として句作から遠ざかっているいうことを強調した。書きはじめたときは俳句から離れるか、戻るか五分五分でであろうと思っていた。しかし、書き上げた頃には、自分は結局俳句から離れることはできないだろうと思うようになっていた気がする。