2011年8月28日

蜩に呼ばれたらしい化地蔵

江戸時代には妖怪を素材にした多くのおもちゃが作られた。バネ仕掛けで飛び上がり、かぶり物がとれて姿が変わる「亀山の化物」人形や、凧、スゴロク、カルタなどにもなっていた。特にスゴロク、カルタには多くの化け物が登場し、一種の「妖怪図鑑」的な楽しみもあったようである。

「化け地蔵」も化け物カルタに記された妖怪のひとつである。有名なところでは数える度に数が違うという日光の並び地蔵が化け地蔵と呼ばれている。地蔵は子どもを守るという信仰や、道の安全を守る道祖神信仰と関わって、おそらくもっとも身近で数の多い仏像である。従って地蔵の霊験譚は中世から近世にかけて数多いが、妖怪化した地蔵の話は案外少ない。ほかには近代になってからだが茨城県岩井市や栃木県足利市で報告されており、それらは夜中に地蔵が歩き回るのを退治した、というもの。夜になると人体模型や二宮金次郎像が歩き出す、という学校の怪談のパターンは現在でもよく知られているが、その先行例といっていいだろう。つまり地蔵に対する信仰、霊験とのつながりよりも、等身大の「人形」に対して人がいだく不気味さが、こうした怪談を生んだのではないか。

参考.国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB2/index.html)、香川雅信『江戸の妖怪革命』(河出書房新社、2005)