第二回
逢ひたきは若きちちはは花辛夷 藺草慶子
(『俳句』角川学芸出版、2011年4月号)
福田 個人的に実は事情があって、二か月くらい前に、祖父が亡くなりまして。そのときに、遺影を探さなくちゃいけなくて。アルバムをひっくりかえしていたら、若かったころのお父さんやお母さんの写真が出てきて。そのときに、すごく、自分の親を褒めるのも変なんですけど(笑)、若いころはきれいだったんだな、とか思ったりして。
神野・野口 かわいい・・・(萌)
福田 たしかに、「逢ひたきは若きちちはは」ってのが、僕の中で句として出会ったときに、すごくシンパシーを感じたというか。藺草さんが、若き父母に逢いたい、藺草さんが想像の中で逢うっていう景よりは、自分に置き換えて、自分が、若かったころのお父さんやお母さんに逢うっていう想像をして。そのときに、花辛夷の下で逢うというのは、ロマンチックというか。いい友達になれるかもしれないと(笑)そんなことを考えまして。そういう風に、深く入り込める俳句って、僕はいいなと思って、もってきました。
野口 そうですね、うーん・・・ちょっと、私はわかりにくかったというか、むしろわかりやすかった・・・さっき福田くんが言ってたような、写真見てて、っていうより・・・若いっていうのが、元気だったころっていうイメージになっちゃうんですかね。若いって、何歳くらいのイメージ?
福田 二十代前半くらい・・・
野口 じゃあほんと・・・
神野 自分と同じくらいのときの・・・
野口 藺草さんが思ってるのはどれくらいかわかんないんですけど、今はすこし衰えているのかな・・・なんで若い父母に逢いたいかっていうと、やっぱり、衰えた父母が目の前にいて、逆にちょっとつらい気持ちで言ってるような気がしちゃって。花辛夷っていう、字のせいもあるような気がするんですけど。
高柳 あー。
神野 「辛い」っていう字が入ってるね。
野口 ちょっと苦しいような句なのかな、と。あんまり、明るいばかりでもないのかな、と思ったんですけど、若之くんが言ったのを聞いて、ちょっとたのしくなりました(笑)。
神野 どちらにもとれますよね。両方あるのかな。逢うと楽しいだろうなっていうのと、今の父母に対する思いと。もしかしたら、もういない父母なのかもしれないし。私としては、こう素直に「逢いたい」といわれると、ちょっと照れちゃうというか。むしろ「逢いたくない」「見たくない」って言われたほうが、逢いたさとか、屈折した切実な感じが出るかなって・・・すごいわかる句なんだけど。そうだよねって。
野口 ちょっと「泣く」系ですよね。「泣く」系。
高柳 うんうん。花辛夷っていうのはね、明るい青空に咲く花だから、そんなに今が、たとえば老人介護しているお父さんお母さんで、みたいな、そういう背景があるようには思えなかったけどね。軽い気持ちってわけじゃないんだけど、ふと、お父さんお母さんのことが懐かしくなって、っていう感じかな。そういう、ま、軽い句だと思いましたけどね。あと、「ちちははに逢いたし」とかじゃなくって、「逢ひたきは」っていうふうにちょっと倒置した言い方にしてるところがね、やっぱりこう、高揚した気分も出ていて、単純に、ポジティブな明るい句じゃないかなと思いましたね。
神野 なるほど。
高柳 まあ、ちょっとアレかな。ドラマとか映画とかでよくあるよね。若いころのお父さんに会う、っていうの。
野口 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(笑)。
高柳 そんな感じかなあ。
神野 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、好きでしたよね。
高柳 そうそう、昔、何度も見たよ。だから、そういう風に、淡白な味わいで何度も噛みしめられる句ではあるかな、と思うけどね。軽い句として味わえる。いまいち迫ってくるものはあんまりなかったかな。その、家族の、もうちょっと奥深い心理のあやみたいなものが描けていれば、句として面白くなるんだけどね。ベクトルが、ちょっと一方行すぎて、っていうところはあるかなあ。
福田 この句、たしかに軽くも読めるんですけれど、人生を重ねる・・・読み手が人生を重ねるごとに、また違う風に読めるかなっていう。そこの深さがあるかなと思って。たとえば僕なんかは、同年くらいのお父さんお母さんを想像しましたけど、もうちょっと年齢が上の人だと、また違った風に思うかもしれない。父母との関係性の変化もあって、読みが変わってくるかもしれないし。もう、ずっと未来に、お父さんやお母さんが亡くなったあとで見返しても、また違う風に読めるかもしれないし。その深みっていうのはあるのかな、ということを、ひとつ、思いました。
神野 読み手の人生に添って、句が成長していく。
(来週は、野口る理のもちよった句をよみあいます)
朝は冷え昼間は暑く夜寒い