かりそめの踊いつしかひたむきに 大木あまり
(大木あまり・第5句集『星涼』ふらんす堂、2010年9月)
野口 この企画が、ここ一年くらいの間の作品の中から一句持ち寄るっていうことだったので、去年出た、好きな句集から選んできました。なんといえばいいのか・・・内容はかんたんで、はじめはかりそめのつもりで踊り始めた踊りが、だんだんひたむきになっていくっていう句なんですけど、「いつしかひたむきに」っていう流れてゆく感じが、とても踊りの感じに合っているというか。表記として、「踊」以外は平仮名になっているところも、ゆるやかな感じもして。踊り以外でも、なんでもそういうものな気がするというか。人生とまでは言わないですけど、なにか始めたことが、だんだんいつかひたむきになっていくっていう。そういう感じが、一句の中で味わえるっていうのが上手だなって思って、好きでした。
神野 そうだよね。踊りっていう季語、実際の踊りの様子を描写した句としてもいい。たしかにはじめは、ちょっと輪に入ってみようかなってくらいだけど、やってみると、ついつい真剣になってたっていう。踊りってそういうものだよね。そして、踊りっていうものの向こう側に、いろんなものが、象徴として置き換えられるように控えている句かな。象徴だけだと句が浮いちゃうんだけど、踊りの描写をしながら、それがほかのことの象徴でもあるっていうところが、重層的でいいなあと思います。「ひたむき」っていう言葉は、すでに使い古されてるものだと思ってましたけど、こんなに切実な言葉だったんだ、って。
福田 僕は、やっぱり、命のあり方みたいなところに、踊りっていう季語だと、通じうるかな、というところがあって、それが僕はいいかなって思ったんですけど。かりそめの、なんとなく始まったものが、ひたむきにっていう、能動的になるっていうか、そういう感じっていうのは、すごい良いと思って。祭りって、もともと、芸術の始まりだ、みたいなことを、国文学の先生が言ってたのを聞いたことがあって、僕らが今やってることっていうのも、はじめはかりそめで始めたことが、ひたむきになってるのかなっていうのは、自分に照らし合わせても感じるところです。そういう共感性があるのかな。
神野 若之くんが俳句を始めたのも、はじめはかりそめみたいなテンションでしたか?
福田 はい(笑)
神野 句の裏に、俳人としての矜持に似たものがあるな、とは思いますけどね。ひたむきに生きている、ひたむきに俳句をつくっている。そういう風に読んでもいいのかなって思います。遊びをせんとや生まれけん。
高柳 ひとつひとつの言葉は、抽象的なものが多いんだけどね。「かりそめ」とか「ひたむき」とかね。それを、きちんと具象に着地させてるというところが、巧いんじゃないかな。る理ちゃんが言ったように、表現が巧いよね。ほとんど平仮名表記になっていたり。「ひたむきに」っていう言い掛けの表現になっていることで、踊りがこれからも連綿と続いていくんだろうってことも分かるし。しっかり出来てる、いい句だと思います。
神野 大木さんの『星涼』という句集は、素晴らしい句集でした。大好きです。
高柳 残る句集だと思いますよ。
野口 私も好きでした。もちろんたくさん・・・どの句にしようかなって思って、これを持ってきたんですけど。大木あまりさんの句は、好きですね。最近読んだ句集の中でも、一番好きだったというか・・・だから持ってきたんですけど(笑)
神野 そうだよね(笑)
野口 もう、たくさん褒められてるんでしょうけど、もう一回、褒めたい。
神野 褒め続けたい。
高柳 ここまで俳句の歴史も積み重なってくると、俳句的な常套表現、常套的な情緒っていうのが、どうしてもできてきちゃうんだけど、そういうところからよくぞ離れて、自在な世界をひらいてるなってかんじがするけどね、大木さんは。
神野 「かりそめ」の句自体は、その底に日本文学の流れを感じますよね。古典の匂いが。
高柳 その句は比較的、『星涼』の中ではそういう部類に入るかもしれないね。一方で、結構はじけたような句もあってね。
神野 十七文字という制限を感じないところが凄いです。
(次回は、神野紗希がもちよった句をよみあいます)