夕ざくら湯気の立つもの食うて泣く 田中亜美
(『俳句』角川学芸出版、2011年5月号)
神野 「俳句」で、4月から、新鋭競詠20句というコーナーが始まって。第一回は高柳さんと鴇田智哉さんで、第二回の5月号が、田中亜美さんと津川絵理子さんでした。田中さんは、ほぼ全編、震災のことを下敷きにした句で、他の句もどれも素晴らしかったのですが、中でも、最後から二句目に置かれた、夕ざくらの句が好きでした。この句の中に入っていると、震災後の炊き出しの風景かなと思いますけど、でも、この句ひとつでも、食べるっていうことが、即、生きるっていうことに直結するような感じがひしと伝わってきます。普段は、食べることも当たり前、あったかいことも当たり前って世の中になってますけど、やっぱり、あったかいものが食べられるって幸せだよね、っていう。コンビニのおでんでも、美味しいっていう、そういうことかな。「あたたかい」ではなく「湯気の立つ」という風に表現したところもいいと思います。夕桜が遠くにあって、それとは別の白さの湯気が手前にあって、湯気の湿度と、桜の湿度と、涙の湿度があって。
福田 「食うて泣く」っていう言い方がすごいいいなって思って。「泣きながら食う」とか、「泣いて食う」とかじゃなくって、「食うて泣く」っていう、その、食べたときのこみあげてくるものっていうのが、すごく出てるなって思って。
神野 泣きながら食べるんじゃなくて、食べてたら泣けてくる。
野口 でも、連作として読まれる部分が大きいのかな、っていう気がしますね。震災のことをイメージしながら読んだほうが・・・読んだほうが、っていうこともないんですけど、その文脈がないと、ちょっと分かりにくい気がします。たしかに、桜と湯気と、湿度がくるっていうのはよく分かるけど。
高柳 る理ちゃんが言った通りなんじゃないかな。第一回で僕が挙げた高野ムツオさんの句は、それ一句単体としても読めると思ったけど、田中さんの句は、その20句の中で映えるっていう気がするな。
野口 そうですね。
高柳 もちろん、そういう俳句の読み方もあっていいと思うんだけど。
神野 そっかそっか。私は、あったかいものを食べたら泣けてくるっていうのは、普段から実感としてあるかなって思ったんですけどね。
高柳 食のありがたみを、そういう風に表現するんだったとしたら、陳腐ってことになっちゃうんじゃないかな。だから、その句一句だと面白くないんだけど、その連作の中では生きてるって感じがするかな。
野口 そうそう・・・
福田 でも、食べ物を食べることによって、心が解きほぐされるというか、それは食べ物のありがたみとかではなくって。そういうことは、震災のとき以外にも、僕はありうるかなって思いました。
野口 そうなってくると、「夕ざくら」だと、弱いというか・・・夕桜じゃなくてもいい気がしますね。でも、この句は、この連作の中に置かれて、すごくアクセントというか、好きな句だなとは思いますけど。
神野 田中さんの連作では、大きなもの、象徴的なものを取り扱ったものも多いですよね。「風光る風と光に脅えては」「静謐なプールに浮かぶてふ〈文明〉」「白骨の森過ぎ石の棺といふ」。でも、この夕ざくらの句は、一人のひとの日常のひとこまにいったん戻ってきてるっていうところに、特に惹かれたのかもしれないですね。大きな、悲惨なことを言ってきて、そのあとに来るから、いち個人というのが、切実に感じるんですかね。あったかいもの食べたいっていう、そういう気持ちになるときはありますよね。
(高柳さん、る理ちゃんが持ってきた柏餅に手を伸ばし、食べる。注:高柳さんは、甘いもの・特に和菓子が苦手だと聞いていたのだ)
野口 わー、食べたぁ!(驚)柏餅食べた!
高柳 うん、結構おいしかった。
野口 それはよかったです(笑)用意したかいがありました。
(次週は、おまけです。外山一機さんのOoi Ocha俳句についてよみあいます)