うしろには蜘蛛の巣のゆらめいてゐる 冨田拓也
(「豈」52号、2011)
上田 ちょっと、鴇田智哉さんっぽいですね。
野口 たしかに。
上田 ゆらめいている、かあ。
神野 なんのうしろでしょうね。
江渡 自分の後ろじゃない?背後にあるからこそ、不気味に見えるのかな、と。
神野 こうやって話している、華ちゃんのうしろの蜘蛛の巣を、わたしが見ている、というふうにも読めるよね。
上田 すごく当たり前(笑)
江渡 得体の知れないものが、うしろにある不気味さ。蜘蛛の巣って、ぴんと張った状態があるべき姿だから、この蜘蛛の巣は、不安定な状態になってると思うんですよ。風に吹かれたりして。
上田 壊れてるとかね。
江渡 そう。それがハッと目に入ったときの、すっきりしない気持ち。だらだらと、平仮名で「ゆらめいてゐる」と書かれたら、納得させられた。
神野 この句、あまりにモノを言わなすぎですよね。蜘蛛の巣以外、なにもない。だから、自分のこのへん(頭のうしろあたりを指して)に、常に蜘蛛の巣がゆらめいているような感覚がするっていう、そんな感覚を詠んだ句なのかな、と。芥川龍之介の「歯車」的なニュアンスで。
江渡 実際の蜘蛛の巣というよりは、蜘蛛の巣の気配がしているっていうふうに読んだほうが、わたしは楽しいと思う。
上田 まったくです。
神野 冨田さんにしては、冒険作にみえますね。スタンダードな、王道の抒情の書き方ではなく、不思議な手触りの俳句っていうのは、彼の中でも珍しい。
上田 「ゆらめいてゐる」に賭けている。この人の、ふだんの緊密な言い方にしては冒険。この字数を使えば、いくらでも、誰のうしろ、何のうしろって言えるんだから、言わないってことは、これはもう「自分のうしろに」か、もしくは、「あらゆるもののうしろに」っていう意味に、とるしかない。
江渡 怖い(笑)
野口 わたしも、あらゆるもののうしろ、と思った。
上田 前がなければ、うしろも成立しないわけじゃないですか。前のことは書いてない。なのに、「うしろには」って書いてあるってことは、それは、この世にない場所なわけですよね。この世にはない「うしろ」というところには、蜘蛛の巣がゆらめいている。
野口 「うしろ」の感覚の定義。
上田 「なになにのうしろに」って言わないで、「うしろには」って言うことのトリックを発見して楽しんでくれ、っていうあたりに、作者の意図があるような。
野口 だからやっぱり、最初の「うしろには」の入り方が、見せどころのような気がします。
上田 やり口としては「人参を並べておけば分かるなり」(鴇田智哉)みたいな。なにが分かるんだ、というのと同じで、なんのうしろなんだ、っていうね。
野口 「蜘蛛の巣」を、あまり暗いモノの象徴としてとらないほうが、おもしろいと思います。不気味、ではなくて、きらきらしてきれい、くらいに思いたい。
江渡 でも、「ゆらめいてゐる」っていうのは、あまりきらきら感のある言葉じゃないよね。
野口 レースな感じなんじゃないですか。
西原 明るい景に見えますよ。きらめきといわずに、きらめきが見えるような。これ、軽いですよね。句全体のグラム数が、0コンマ何グラムっていう(笑)。僕この句好きですよ。具体的で実景なんだけど、どんどん観念にいってしまえるっていうのも、ねらいかもしれない。「蜘蛛の巣」としか言ってないから、いろいろ思わせてくれるところがある。
神野 うしろにゆらめいていそうなもののひとつに、蜘蛛の巣を加えた句、っていう感じ。蜘蛛の巣のほかにも、いくつか、そういう、ついてまわるなにかがあって、この人にとっては、たとえば蜘蛛の巣だった。
西原 面白いね、この句。「蜘蛛の巣がゆらめいてゐる」って、かなり冗長だよね。全体を軽くするために、これだけの音数を使ったってことでしょう。
神野 冨田さんは、「豈」以外で作品を見る機会がなかなかない人ですが、どんどん読みたい俳人ですね。
江渡 いろいろと冒険していると思いながら、選びました。
(次回は、西原天気さんの推薦句をよみあいます)