2012年1・2・3月 第七回  うしろには蜘蛛の巣のゆらめいてゐる   冨田拓也(江渡華子推薦)

上田信治×西原天気×江渡華子×神野紗希×野口る理

うしろには蜘蛛の巣のゆらめいてゐる   冨田拓也
(「豈」52号、2011)

上田  ちょっと、鴇田智哉さんっぽいですね。

野口  たしかに。

上田  ゆらめいている、かあ。

神野  なんのうしろでしょうね。

江渡  自分の後ろじゃない?背後にあるからこそ、不気味に見えるのかな、と。

神野  こうやって話している、華ちゃんのうしろの蜘蛛の巣を、わたしが見ている、というふうにも読めるよね。

上田  すごく当たり前(笑)

江渡  得体の知れないものが、うしろにある不気味さ。蜘蛛の巣って、ぴんと張った状態があるべき姿だから、この蜘蛛の巣は、不安定な状態になってると思うんですよ。風に吹かれたりして。

上田  壊れてるとかね。

江渡  そう。それがハッと目に入ったときの、すっきりしない気持ち。だらだらと、平仮名で「ゆらめいてゐる」と書かれたら、納得させられた。

神野  この句、あまりにモノを言わなすぎですよね。蜘蛛の巣以外、なにもない。だから、自分のこのへん(頭のうしろあたりを指して)に、常に蜘蛛の巣がゆらめいているような感覚がするっていう、そんな感覚を詠んだ句なのかな、と。芥川龍之介の「歯車」的なニュアンスで。

江渡  実際の蜘蛛の巣というよりは、蜘蛛の巣の気配がしているっていうふうに読んだほうが、わたしは楽しいと思う。

上田  まったくです。

神野  冨田さんにしては、冒険作にみえますね。スタンダードな、王道の抒情の書き方ではなく、不思議な手触りの俳句っていうのは、彼の中でも珍しい。

上田  「ゆらめいてゐる」に賭けている。この人の、ふだんの緊密な言い方にしては冒険。この字数を使えば、いくらでも、誰のうしろ、何のうしろって言えるんだから、言わないってことは、これはもう「自分のうしろに」か、もしくは、「あらゆるもののうしろに」っていう意味に、とるしかない。

江渡  怖い(笑)

野口  わたしも、あらゆるもののうしろ、と思った。

上田  前がなければ、うしろも成立しないわけじゃないですか。前のことは書いてない。なのに、「うしろには」って書いてあるってことは、それは、この世にない場所なわけですよね。この世にはない「うしろ」というところには、蜘蛛の巣がゆらめいている。

野口  「うしろ」の感覚の定義。

上田  「なになにのうしろに」って言わないで、「うしろには」って言うことのトリックを発見して楽しんでくれ、っていうあたりに、作者の意図があるような。

野口  だからやっぱり、最初の「うしろには」の入り方が、見せどころのような気がします。

上田  やり口としては「人参を並べておけば分かるなり」(鴇田智哉)みたいな。なにが分かるんだ、というのと同じで、なんのうしろなんだ、っていうね。

野口  「蜘蛛の巣」を、あまり暗いモノの象徴としてとらないほうが、おもしろいと思います。不気味、ではなくて、きらきらしてきれい、くらいに思いたい。

江渡  でも、「ゆらめいてゐる」っていうのは、あまりきらきら感のある言葉じゃないよね。

野口  レースな感じなんじゃないですか。

西原  明るい景に見えますよ。きらめきといわずに、きらめきが見えるような。これ、軽いですよね。句全体のグラム数が、0コンマ何グラムっていう(笑)。僕この句好きですよ。具体的で実景なんだけど、どんどん観念にいってしまえるっていうのも、ねらいかもしれない。「蜘蛛の巣」としか言ってないから、いろいろ思わせてくれるところがある。

神野  うしろにゆらめいていそうなもののひとつに、蜘蛛の巣を加えた句、っていう感じ。蜘蛛の巣のほかにも、いくつか、そういう、ついてまわるなにかがあって、この人にとっては、たとえば蜘蛛の巣だった。

西原  面白いね、この句。「蜘蛛の巣がゆらめいてゐる」って、かなり冗長だよね。全体を軽くするために、これだけの音数を使ったってことでしょう。

神野  冨田さんは、「豈」以外で作品を見る機会がなかなかない人ですが、どんどん読みたい俳人ですね。

江渡  いろいろと冒険していると思いながら、選びました。

(次回は、西原天気さんの推薦句をよみあいます)