満月をそのまま使ふ野外劇 平井皆人
(第15回俳句甲子園 個人優秀句)
野口 私はこの「満月をそのまま使ふ野外劇」(平井皆人/開成高校A)が好きでした。野外劇の最中に満月が出ていて、その満月を小道具として使っちゃうという大胆さ。台本の面白さや、役者の演技なんてきっと関係なくって、もう、満月の美しさで感動させられちゃいそう。むしろ、あんまり面白くない劇のほうが、満月がより際立つかも。
神野 たしかに。野外劇の内容は、忘れてしまいそうやね。
野口 どんな風に使うのかを句に書いてないところが、私は好きでした。満月を指差してるでしょうね、ここ。どんなシーンだと思いました?
神野 うーん、私は単純に、夜のシーンかなと思った。だから、指差すまでは考えなかったけど、夜のとばりがおりて愛を告げるような、ノクターンっぽいシーンかな。
酒井 動きのあるシーンかなと。独白のシーンとかだと役者に視線がいってしまって、あまり月に目が行かない気がします。いずれにせよ、淡々とした言葉で占められているので、逆に想像が膨らみますね。
野口 感情とテクニックのバランスが絶妙なんですよね。そこに満月がある、ということの運命性を感じさせながら、文体としてはわりとクール。「そのまま」という投げ出した感じの言葉遣いが、句の内容にもリンクしてくるような。ひょい、って感じの軽さが楽しい。
神野 そうね。これ、三日月とかだと、逆に出来過ぎ。印象的な満月だからこそ、特に舞台の内容とかかわりがなかったとしても、あの満月もまるでセットのようだね!と気づいて言いたくなる気持ちになるんだろうね。
野口 他には「雲の峰象死してなほ象遣ひ」(大中博篤/愛光高等学校)も沁みましたねぇ。象使い、象の調教師のことですよね。象が死んじゃったからハイおしまい、ではなくて、なかなか象の死が受け入れられない。というか、象がいるから象使いなのではなかったんだ、自分のアイデンティティが象使いなのだということを受け入れた瞬間なのかも。
酒井 おそらく初めて担当した、くらいの思い入れのある象だったのでは。一蓮托生みたいな感じでやってきたのが、象は死んでしまい自分はそのまま象使いを続けている。プロとしては、そこは乗り越えなきゃいけないある種宿命なんでしょうけどね。
神野 わりと哲学的な風合いの句だよね。雲の峰が、象がいるべき草原を彷彿とさせるあたりが切ない。『ジャングル大帝レオ』のラストの1ページを思い浮かべました。
野口 季語のさわやかさがよりその哀しさを誘う。
酒井 雲まで象に見えてくる、って読むのは少し陳腐かもしれないですが、心のどこかで死んだ象をまだ探しているんでしょうね。
神野 象遣いの心には、まだ象がいるんだね。もう、象使い以外のものにはなれない自分を自覚してる、のかな。
野口 あと「涼しさや湾のかたちの土踏まず」(宇野究人/開成高等学校A)も好きでした。プールサイドとかの濡れた足の足跡を見てるのでも良いし、直接足の裏を触ってへこんでいるのを確かめているのでも良い。土踏まずと湾のかたちって似てる!という単なる発見以上のものが伝わってきました。それはやっぱり、季語なんですかね。「涼しさ」ってなんにでも付けられちゃうから季語が動きやすそうでもあるんですが、でもこの句は、元気いっぱいガムシャラな季語よりも、さらりとした季語で読みたい。
神野 あの土ふまずの空間に、何か波のようなものが寄せてくると思うと、ちょっとくすぐったくて、楽しいな。湾の景色を見ても、巨人をふと思ったりして。比喩している対象が逆に比喩されるような。
野口 とっても品が良い句だと思いました。
酒井 うんうん。
野口 「少年の裸や高く高く魚」(松下華菜/愛媛県立宇和島東高等学校)も気持ちがいい句ですよね。ざぶんっ、と音が聞こえてきそう。深くもぐって泳いでいる少年と、その上のほうにきらきらと魚が泳いでいるような景を思いました。句の調べもフレッシュな感じ。
神野 そうですね。トビウオなのか、獲った魚を掲げているのか…私はちょっとマイナーな意見かもしれないけど、素潜りで水面を仰いだ少年の視点を思いました。裸の少年がいて、その上を魚の群れがさっと通って、太陽の逆光で反射してすごく光って過ぎていく感じ。そうすると季語としては弱くなるのかもしれないけど、私はそう読みたいな。「高く高く」どうするのか、というところをどう解釈するかで分かれる句なのかな。
酒井 私は紗希さんと同じような読みをしました。海の中と解釈すると、高く高くは活きてこないような。ただどちらにしても、躍動感があって素敵な句ですね。平易な表現が、その場にいた感じを高めてくれますね。
(次回へつづく)