手の薔薇に蜂來れば我王の如し   中村草田男

「薔薇」は花束でなくて、ふいに手にした1本であってもよい。
薔薇を手にしているだけでも、十分に満たされている気分なのだろうが、
その薔薇にさらに蜂がやってくると、万能感すら覚えている。
薔薇を持っているポーズも、自然と堂々とした態度(キリッ、ドヤッ)なのだろうと想像できる。
「我」を入れたところに、実感がこもり、神ではなく「王」としたところになぜかリアリティがある。
薔薇があって、蜂が来ただけで、王の気分になれるとは、なんともお手軽である。
このお手軽感こそが、短い栄華であることを思わせ、少し切ない。
さらに、その王家の紋章が薔薇だ、とか、薔薇が権力のメタファーだ、とか、
蜂が、召使、もしくは外敵のメタファーなのだ、などと考える楽しみまで残してある句である。

『長子』(『中村草田男全集 1』みすず書房、1989)より。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です