花水木言葉を覚えては歌ふ  江渡華子

子どもを通して、言葉の本質に迫る句。言葉は、覚えるもの。そして、歌うもの。覚えたての言葉には、まだしらべの上に意味がぐらぐらと乗っているだけで、そのしらべの楽しさを歌って楽しみながら、いつしか意味を定着させてゆく。その、しらべと意味の不安定な関係性が、そのまま、子どもという存在の不安定さを象徴していて、花水木というすがすがしい初夏の木の花が、その不安定さを涼やかに肯定してくれる。

徹底的にリアルを掘り下げるという育児俳句のあり方を提示し続ける華子の言葉は、おりおり、個別性を離れ、普遍性に強く引き寄せられる。この句もその一つ。たぶん、華子は、Tシャツの蛙やおでんを煮る足に触れた子どもの手を詠むように、この句も詠んだのだろうが、出来上がりの質感は違う。前者は個別性のリアルを詩のよすがとし、後者、この句などは、普遍性を志向している。江渡華子という作家性を離れた顔のない句だが、そのぶん、水のようにさらさらと、世界のどこにでも偏在できる。

個別性を磨いてゆく中で、ときどき零れ落ちる副産物、普遍性を帯びた言葉もまた、華子俳句の輝きの一滴である。

2016年5月「止めに行かむ」より。