2012年1・2・3月 第十二回 『けむり』の話 2

上田信治×西原天気×江渡華子×神野紗希×野口る理

『けむり』

神野  そういえば、そもそも、句集をいまのタイミングで出したのは、なにかあったんですか。

西原  うーん、忘れた。きっかけは、うーん、よく覚えてない(笑)。

上田  天気さん、句集出さなそうなひとでしたもんね。

西原  なのに出しちゃって、申し訳ありません。

神野  そう。「自分は、俳人じゃなくて、俳句愛好者だ」って言ってたじゃないですか。でも、句集を作って、誰に読んでほしいのか、聞いてみたいなって。

西原  みなさんが、句集を出そかな…と思い立つのと、おなじ感じだと思いますよ。

上田  角川俳句賞に、僕や谷雄介が出すって言ってたら、天気さんが、じゃあ僕も出すかって、粋狂で出してくれたことがあったじゃないですか。天気さんの怖いのは、それで、すんでのところで、取り逃すところなんですけど(笑)。あのときの感じとすごく似てますよね。ひとがそんなに言うなら、やってみよか?みたいな(笑)。

西原  いや、ひとからはそんなに言われなかったですよ。社交辞令でいいから、「そろそろ句集、出したら」と言ってくれるひとが、もうちょっといてもいいと思ってた(笑)。まあ、気楽にスタートしたかな。これまでつくった句を集めてみて、それで句が足りなければ、出さなければいいし、っていうくらいの気楽さ。作った句を整理してないから、拾うところからはじめましたね。

上田  箱に入れる。

江渡  箱に入れる?

上田  単語カードに自分の句を書いて、箱に入れてましたよね。

野口  句集ならぬ、句箱!

上田  現代美術みたいなね。で、句箱をぱかって見せてるうちに、句集も作品になりうるんではないか、という気持ちが天気さんの中に芽生えたのではないか。句集はダサいが、かたまりで俳句を見せるというのは面白いぞ、というね。

神野  あ、句箱が出てきた!

西原  きれいでしょ、この箱。

神野  きれーい。

西原  いただいたお菓子の箱がきれいだったから、捨てるにしのびなく、そしたらたまたま、こういう、長い単語カードを見つけたんですよ。「これ、俳句書くのにええやん」というわけで。

上田  打ち合わせで天気さんちにくると、「最近こんなの作った」って見せてもらったのが、すごく楽しかったんですよ。要するに、俳句の物質化ですよね。俳句の一句一句を、モノにすることが面白い。

上田  俳句が、箱に入ってることが面白いじゃないですか。開けると、読める。

西原  ひとつしかないから、読者は、ひとりずつ。

神野  スペシャル感。

西原  あ、そうそう、句集をつくった理由、もう覚えてないけど、座談でなにか言わないといけないので、回答をつくったんだよ。

神野  おお、用意してくださったんですか(笑)。

西原  そうそう(笑)。ええっとね、自分に関して「週刊俳句をやってるひと」っていうイメージがだんだん強くなってきたみたいに感じていて、これはちょっと違うなと。句集を出したら「俳句もやってるんだ」ってのが分かってもらえるんじゃないかと。今から思えば、自分でバランスをとったということかもしれない。「週俳のひと」と「俳句を作るひと」のバランス。

江渡  なるほど。

西原  実際、「週俳で名前は知ってたけど、まとめて俳句を読んだのははじめて」というひとも多かったと思いますよ。あ、それで、ひとつ言っておきたいことがあって。

神野  何ですか?

西原  信治さんが、『けむり』の栞で「俳壇の人を一切ありがたがらない」人だって書いてくれたじゃないですか。これ読んだひとは、わたしが俳壇のひとを軽んじてるみたいに思うかもしれなくて、そうだと、なんかナマイキなやつじゃないですか。そうじゃなくて、俳句はありがたいし、俳人もありがたいんですよ。でも、俳壇には ありがたがる理由がない。

神野  なるほど。俳人や俳句と、俳壇とは違う。

西原  俳壇ってね、「壇」っていうくらいだから、上下がある。

神野  ヒエラルキー。

西原  まあ、2層だけ、ですけどね。壇上と観衆。たとえば、講演会やパネルディスカッションで登壇する可能性があるひとと、ないひとという区別はやはりあって、前者が俳壇、後者が観客。そう考えるとイメージしやすい。

上田  ふむふむ。

西原  それで実態としては、業界誌としての総合誌が、俳壇の形成に大きな役割を果たしてきた。協会かな、俳壇の太い柱は。

神野  業界誌としての総合誌と、協会の、二つ。

西原  俳壇ってなにするかっていったら、俳句が生まれてくる場所でもあるんだけど、広い意味での政治なわけでね。それはもう、ちっちゃいちっちゃい政治なんですが、それで成り立っている。

上田  はい。

西原  これは別に悪いことじゃなくて、俳句を生みだして供給するためには、政治って必要なんですよね。誰かがそれを担わなければいけないわけです。ところが、わたし自身は、政治にまったく興味がない。ってことで、俳壇には興味がない、ということなんです。

上田  もう、見ないようにしてますよね、天気さんは。視界の中の、俳壇の方向に、モザイクがかかってる。

西原  モザイクっていうと、「見せてはいけないもの」って感じ? エロ?(笑)。まあ、つまり関心がないんですよ。俳壇は必要だと思いますよ。俳壇がないというのは、無政府状態ということですから。それは現実として考えられない。俳壇必要だし、そこには政治がある。でも、関心がない。

上田  僕も、天気さんのスタンスに大いに共感します。でも、はじめから、それが見えないところで俳句をはじめてるわけでもない。天気さんよりも意図的に、俳壇というものをなしにしながら、《俳壇というものが存在する俳句》と関わるという方法を発明しようとしている、ということかもしれない。週刊俳句の場合は、まずは、でたらめに頼む、ということが一つですね。俳壇でのヒエラルキーを考慮しないで、ベテランにも、若手にも、一律に、ランダムに依頼する。

西原  ああ、そうですね。週刊俳句は、ランクつけないもんね。有名な俳人も、そうでないひとも同じところに並ぶ。今年の新年詠が、いい例だ。それは普通の俳句雑誌だと考えられない。

上田  そのひとが俳壇でどの立場にいても、それが見えないようなふりをしていますね。ほんとは、めっちゃ、緊張してますけど。

神野  それは、現在の俳壇の布陣を書き変えていきたい、っていう気持ちにつながるんじゃないですか。

上田  もちろん、そうですよ。僕は「だれもそんなにまじめに、俳壇の序列に従ってるわけじゃないでしょ?」ってことが、言いたい。だって、書き手が、みんな、俳壇の秩序に従ってるんだったら、「週刊俳句」には、書かないじゃないですか。でも、みなさん快く「10句お願いします」「いいですよ」って書いて下さること自体が、誰にとっても、要は「俳句があればいいじゃないですか」ってことで。

神野  そうですね。わたしたちにとって、「俳句をつくる」っていうのは、大前提として、ある。それプラスアルファ、なにをするのか。たとえば、「週刊俳句」をやったり「スピカ」をやったりしているのは、ある意味、奉仕活動みたいなところもありますよね。

上田  ありますね。まったくだよな。

神野  俳句のためにっていうと…

上田  くちはばったいよな。

神野  そう。でも、どこかでちょっと、信じてるところはあるかな…。

西原  それはあるでしょ。こないだ、ウラハイに「批評は公共」って書いたんだけど(夜中に冷蔵庫を開けたものの、何がしたかったのか忘れた、)みんなで楽しくなるために、なにかをするんですよ。有償無償にかかわらず。だから、公共の意味を欠いた批評は、すごく厭。たとえば、自分の立場を築いたり維持するための批評。党派的な思惑からくるもの。教義を守るだけの批評。それは公共のためじゃなくて、いわば私欲ですから。基本的に、俳句を読んだり書いたりするのはそうじゃなくて、公共。お互いのために、する。

上田  俳句は、非常に危うい、脆いものなので、ただ享受者であるという立場はありえないわけですよ。だから、俳句と関わる以上はどこかで、自分を、ひどくひとのいい立場に、置かざるを得ない。

神野  うん、公共ですよね。

上田  もらうだけ、っていう立場ではいられない。

西原  それって、俳壇うんぬんとは無関係でしょ。「俳壇のため」ではけっして、ない。

上田  そうです。自分の俳句の場を、楽しく気持ちよく、風通しよくする、ってこと。

西原  俳壇との関係ってのは、性分の話だよね。理屈じゃない。

上田  性分ですねえ。僕は、めんどうなことは見ない振りして、土足で踏み込んでいく、というスタンスです。それは、それなりにストレスフルなことでもあるんですけど、俳句と関わる時点で、自分は無限に人がいいのだ、ということを仮定して、俳句を始めてますから。それがもたなくなったら、リタイヤする。すごく人がいいことじゃないですか、俳句をするってことは。

西原  謎がとけました。なんで、上田さんが、ああまでして『俳コレ』を作ったのか。みんなに読ませて楽しい思いをしてほしい、ということなんですね。

上田  僕は、奥さんが漫画家で、ふだんは生業として大衆芸術というものに携わっているわけですけど、そこでも、じつは誰もが「自分は無限に人がいいのだ」ということを仮定して始めているわけです。お金のためとか、自分の優位性の証明のためにはじめるひとでも…たとえばボクサーとか、野球選手とかね、無茶苦茶ひとがいいですよ。自分がチャンピオンになれる!と思ってるから続けられるんだけど、実際には続けられない可能性も含めて、100対1の確率であるということを知りつつ、ジャンルに携わっているという、人のよさがある。で、めちゃくちゃ殴られる。世のため人のためじゃないですか。俳句も同じことでね、あのね、得しないですよ、俳句したって。あるいは、漫画描いたって。それは、あらゆる表現行為の根底にあることなんですけど、俳句の場合は、あまりに儲からないので、その根底が、非常に先鋭的にあらわになってる。こんなに儲からないことはない(笑)。でも、なんでやりたいの?ってことを、ごく初期の段階で自分に問いますよね。

西原  面白いから、だけじゃない。

神野  楽しければいい、だけじゃない。それなら「週刊俳句」なんて運営できない。

西原  たしか内田樹が言ってたと思うんだけど、道にゴミが落ちてたら、誰が拾ってもいいし、逆に誰かに拾う義務も決まりもない。そこで、義務とか決まりなんて考えずに、自分が拾うよってひとがたくさんいたら、そこは気持ちのいい社会になるという…うーん、ちょっと違うかな…でも、そういうひとたちじゃないと、こういう座談もしないし(笑)。

野口  なんというか、ありがとうございます(照)。

西原  「週刊俳句」もやらないわけですよ。俳壇での地位を築きたい、なんてひとは、こんなこと考えないし、週俳で地位を築くのは無理。

上田  むしろ、不利ですよね(笑)。

神野  なんだか、本当に、自分が、人のいい人間のような気がしてきました(笑)。いやあ、本当に、長い時間ありがとうございました。もっと聞きたいことはたくさんありますが、続きは「週刊俳句」で(笑)。

(終)