2012年4・5月 第二回 外から見た文語の話

杉本徹×関悦史×神野紗希×野口る理

神野 俳句の場合、「なり」とか「や」「かな」「けり」といった切れ字をはじめとして、「やさし」とか「さびしかりけり」とか、文語がまだまだ、ふつうの言葉として生きてますよね。我々は、そこまで違和感なく、使ったり読んだりしているわけですが、詩人から見ると、そんな俳句の世界はどう見えるのかな。

杉本 それはね、いつも気になりますよ。切れ字なんかでも、なんの違和感もなくそこに現れているのは良い句だと思うんだけど、かなりの句はやっぱり、切れ字が目立つね。

神野 なんでここに出てくるんだろう、っていう。

杉本 そうそう。正直言って、これ(持参の『俳コレ』を指さして)読んでても、全体にわりとライトな風が吹いてる中で、「かな」とか「けり」とか、なんでここに?という気持ちは、正直、結構感じますよ。そこらへんで、「ああ、俳句を作ってるな」と感じられちゃうと、僕としてはちょっとテンション下がるな。

神野 必然性をもって、すべての言葉が使われていればいいけれど…とってつけた感じになっちゃうと×。

杉本 切れ字を使っていなくても…そうですね、神野さんが目の前にいるから神野さんの例を挙げましょう。

ここもまた誰かの故郷氷水  神野紗希

杉本 とてもいい句だと思うんですけど、最後の「氷水」が…意地悪な言い方をすると、だよ。意地悪な言い方をすると、前半で詩の…「あ、やられた」という非常に詩的なものが来るんだけれども、そこになぜ「氷水」をつけなければいけないのかということを詩の行を見る目で見ると、多少の違和感があって「ああ、俳句ですね」って感じになるから。詩行だったら、最初の5・7で十分ですよ。それで十分、キメになると思う。だから、単に切れ字や文語を使うというだけではなくて、単語レベルでも…

神野 取り合わせっていう技法ですよね。

杉本 5・7・5を埋めるために出て来たわけでしょう、氷水も(笑)。

神野 ああ、なるほど(笑)。私は「ここもまた誰かの故郷」だけだと、モノフォニックでちょっと物足りないと思ったんですよね。だから「氷水」が出てくるのは、私にとっては必然性があるんですけど、でも「氷水」とだけ言って、結びつけないでぽーんと置いた感じになるのは、575の制約があるからでしょうね。

杉本 あの句なんか、典型的に「俳句だなあ」と感じるなあということで、ふと思い出しました。

野口 へー!(驚)

  たしかに、詩の目で見ると、物足りない感じはするでしょうね。

杉本 そう、「あー、俳句つくりましたね」という感じがしちゃうんだよね。

  詩からだんだん短い方向へうつっていくと、ふつうは、「季語つけて、浅い所で一句にしちゃったんだなあ」というふうに見える。季語がくっつけられることによって、最初、俗化してみえる。

神野 パターンが見えてしまう、ということが、俗なのでしょうか。

関  「ここはまた誰かの故郷」という自分の発見によって突っ走っていってどこかに達する、という詩の生理と反して、すでに出来ている季語という認識の体系と折り合いをつけることで、無難に作品にまとめてしまった、という風に見えるんですよ。詩を読みなれてる人が俳句を読むと、最初は。

杉本 そうね、そういう感じだね。

  ただ、これは、詩と俳句との生理の違いで、うまくはまると、詩にはできないことが、俳句で達成できるんです。

杉本 そうだね。そうしたことが全く気にならない俳句も、確かに存在するわけです。…ところで、『大いなる項目』って季語あるの?

  季語、あるものもないものもあります。「祈るなり百万の独楽回るなり」の句は、一応「独楽」は季語ですけど…

杉本 独楽、季語!?

野口 ですけど、

  季語としては使ってませんね。

野口 「くしゃくしゃの祈りをひらき祈るなり」の句に、季語はなさそうですよね。

神野 「祈りいるこころは糸瓜にも似たり」も、「糸瓜」が季語ではあるけれど…

野口 季語の糸瓜を思うのか、かたちとしての糸瓜を思うのか。

  有季定型のひとは、こういう句集を読むと、必死に季語を手掛かりにして、なんとか着地させようとする。

杉本 なるほど。

  自分がもってる体系のなかで読もうとすると「祈るなり百万の独楽回るなり」なんかは読めないというか、「これは俳句になってるかどうか分からない」という判断になる。

杉本 逆に、僕も含めてだけれども、俳句を読んでいるときに、気がつくと季語のことをなんにも考えずに読んでるんだよね。あまりにも考えなさすぎだというところが、自己反省としてあるけど。

神野 そういう意味では、季語を知らない人、詩の人なんかが読む場合、季語の入っている句がアクセントになって見えるかもしれませんね。いきなり「糸瓜」が出てくると、「え、糸瓜?」という異化作用。四ッ谷さんが季語を知らなくても「糸瓜」という語がするすると出てくるかというと…俳人として、季語体系のなかの語彙としての「糸瓜」を知っていたということは、プラスに働いていると思いますね。

杉本 そこも面白いですね。

神野 ハーフ、みたいなね。詩と俳句の。

杉本 そうか、これは、ニューハーフ。

神野 ニューハーフ?!意味が変わってくる気が(笑)

杉本 永田耕衣の「夢の世に葱を作りて寂しさよ」、あれなんかは季語から出来てるのかな。あれは「葱」が季語?

神野 一応。ただ、「葱」という季語で作った句です、という紹介の仕方にはならないでしょうね。

関  平井照敏の歳時記には、耕衣のこの句、入ってたはず。

神野 そうなんですね。歳時記には、葱を主題に詠んだ句だけではなくて、耕衣のこの句のように、葱で詠まれた名句があれば、どんどん入れればいいと思いますね。

関  永田耕衣は、8~9割、有季で季語が入ってますよ。

杉本 耕衣の葱の句になってくると、季語を置いたっていう感じが全然なくって、それこそ懐に入ってますよね。あのくらいになってほしい、ああいう使い方をしてほしい、という気がする。

関  永田耕衣は、禅に親しんでましたけど、禅を通じて自分のほうで悟りを開こうということではなくて、禅という体系…手段を悪用して、世界を自分のものに私物化してしまう、というところがあった。

野口 「悪用」って言いましたね(笑)。

  季語まで含めて私物化しちゃっているので、耕衣の体系の中では、自由自在に使えるようになっているんでしょう。

杉本 今日のために(注:このあと勉強会があった)水原秋櫻子を読んできたんですが、秋櫻子をこんなにかたまりで読むのは初めてでさあ。でも、俳句界というものの風景が、よく見えますよ(笑)。

野口 そうですか。(笑)

杉本 それから、秋櫻子を読んでると、なんていうか…現実の世界の中で、あぁ気持ちが休まるなあという、こんなことひとりで言ってるとばかばかしく情けない感じになるんですが(笑)。

神野 癒しになるんですか(笑)。秋櫻子は、美しいものが好きでしたしね。

杉本 清濁の濁は呑みたくない、という。詩としてどうかというレベルの以前に、あぁのどかであぁまた奈良行きたいなあ…と。ま、どうでもいいことですね…(笑)

神野 その評価、いいのか悪いのか(笑)。

  四ッ谷龍さんも、秋櫻子の師系ですよ。秋櫻子の弟子の藤田湘子の、弟子。

杉本 俳句のひとってさかのぼれば、たいてい虚子や秋櫻子にはつながるんじゃないの?

  いや、虚子にはつながりますけど、秋櫻子は「たいてい」というほどでは。

野口 虚子には行く。

関  価値観の相違という点でいうと、世襲制、家元的な体系を会社として経営した虚子と、俳句を近代文学だと捉えた秋櫻子との対立ですよね。

杉本 秋櫻子も、それでいて、結社のトップになるわけでしょ?虚子なんかは、神野さんと話していても、巨大な存在として今も生きていると感じられるんだけど、秋櫻子って実際はどうなの?読まれてるの?今の若手に。

関  虚子の大帝国に初めて反旗を翻して、それ以外の方法を示したという意味で、歴史的に評価されていますけど、作家的にそんなに読まれているかどうかは、怪しい。

神野 高柳克弘さんは、よく、好きな俳人で名前を挙げてますよね。

  高山れおなさんも、秋櫻子好きだって言ってましたね。はたから見ると、普通に自然を書いているように、保守的に見えますけど、ロマン主義なんですよ。過剰なロマンティシズム的な資質をもっていて、それを俳句において実現してやろうというひとにとっては、ひとつ、原点にある作家なのでは。

神野 そう見れば、秋櫻子、湘子、四ッ谷龍ラインがつながって見えますね。作品が似てる似てないっていうより、姿勢が共通している。

  やりかたを真似るのではなく、目指すところを真似る。

神野 どんなスタンスで俳句をするかというところに、師系が影響して、受け継がれているものがあると感じますね。

(次回も、『大いなる項目』について語ります)