2012年4・5月 第三回 千万の菫咲かせてわが死角 四ッ谷龍(杉本徹推薦)

杉本徹×関悦史×神野紗希×野口る理

杉本  身も蓋もないことを言うとね。『大いなる項目』を見ていると、この書ではじめて出現した幻のようなものが随所にあって、そういうものが出てくると、ぼくとしては非常に惹かれちゃうところはある。

神野  たとえば?

杉本  たとえば、この句ですね。

千万の菫咲かせてわが死角   四ッ谷龍

杉本  「死角」という言葉がいいなあと。「北風吹けり人に死角というものあり」。これも死角ですが、この「死角」というのは、ここで初めて教えられた存在であるという感じがして、わたしは惹かれてしまいますね。

 関  四ッ谷さん、祈りを通して別の時空にいっても、いきなり自分が神様になっちゃうわけじゃなくて、いちおう一個人の枠組みを持って異界に参入してるわけです。その個人の限界というのが、「死角」というところに出てくる。

杉本  こう言われないと気がつかないで一生終わるんだけれども、「千万の菫が咲いている」と言われたから、そういう死角が確かに今もそこらへんにあるんだな、と思う。「祈るなり百万の独楽回るなり」の句と相当迷って、ひと駅乗り過ごした句ですね。

神野  「千万の菫」の句、いいですね。好きですね。

 関  素朴にリアリズムとして読める句かというと、これも微妙なんですよ。「咲かせて」というのは、この場合、俳句的に気取った言い方としての「~させて」ではない。

神野  『大いなる項目』を読んでいると、〈わたし〉〈我〉というのが非常に強く凝ってますよね。祈るという行為自体も、わたしを醸すようなもので。

杉本  この句集自体が、その前提で書いてるよね。

神野  「わが」という単語そのものが出てくる句も、たくさんありますしね。だから「咲かせて」という言い方も、私の存在を強く感じさせる気がします。「私の死角」の存在、と言い換えてもいいのですが。

 関  「咲かせて」というのは、自分の許可としてではなくて、名前すらない咲かせている者があって、神っていう言葉を出さずに異界的な広がりを示して、その中にいる自分…という位置関係を出そうとして出て来た「咲かせて」なんです、これは。

杉本  うーん。

神野  わたしは、自分の知らない自分がさせてる、という感じで受け取ってました。死角という、自分の中にありながら見えない部分に、ユートピアとも地獄ともつかないものが存在している。

 関  四ッ谷さんには、自分と自分がズレている、という句があるでしょう。これも、そのひとつですね。

神野  そうですね。

 関  それは、ドッペルゲンガー的に、別の個体があるということではなくて、もっと巨大な、形がないもの…。

神野  でも、面白いですね。杉本さんが迷った2句、「祈るなり百万の独楽回るなり」「千万の菫咲かせてわが死角」、どちらも「百万」「千万」と、すごくおおきい数が詠まれてる。

杉本  くしくも。

 関  現実の時空のことではないということの、断り書きですよ。

神野  なるほど。断り書きをすると、分かりやすいですよね。

杉本  もし575の制約がなかったら「千万」という言葉を出すかなあ…。

神野  それはプラスの意味でいってます?

杉本  うーん…この句に関しては成功してるからいいんだけど、敢えて575ではなく書く場合、「千万」を出すかな…。「咲かせて」は575の制約がないと、別の言い方になっちゃってるような気もする。

神野  そういうことであれば、俳句の575という形式があるから書ける詩もある、ということですね。

杉本  この句集で、硬質に見せてもらった幻の力っていうのは、並々ならぬものがありましたよ。そういう俳句があまり俳句の世界で買われない気がするのが、いつも歯がゆくてですね、それで強引に持ってきたのが、もう一冊…。

野口  もう一冊あるんですか!

杉本  有住洋子句集『残像』(2009年8月・ふらんす堂)です。三年くらい前の。

 関  読んでいないですね。

杉本  これも、私は「ふらんす堂通信」の連載で書いたんですけど、見事に誰も俳句のひとが取り上げないから、なんでだろう?と。単純な意味での言葉の技量っていう意味で、本当に強く推したいですね。

 関  栞で抽出されている句を見る限りでは、ふつうの俳句ですよ。

杉本  あれ!?そうですか。

 関  きれいなものを書いている、っていう。

野口  はい、やさしい感じがする句集だと思います。たおやかで女性らしい雰囲気というか。

神野  わりと、俳句の世界では、あるタイプの句かな…。杉本さんが引用している「一の宮二の宮三の宮椿」、これなんかはたとえば黒田杏子さんの「一の橋二の橋螢ふぶきけり」を思い出す、パターンですね。

 関  この人は、この世の中の目に見えるものだけで完結しています。祈りを通して別な時空にいっちゃうというような要素は一切ない。

神野  うーん…そこまでは言わないけど…。

杉本  気配としては、半歩くらい現実を超えていくような、ふっと誘う言葉のはたらきがあるように思えるんですが…。

 関  これは、俳壇的にはよくある句です。誰も抵抗なく読めて、いい句集でしたね、という。

杉本  これなんかも、地名を並べてるだけだけど、なかなか出せない何かが…「代官山恵比寿猿楽花の闇

 関  詩では、これやりにくいでしょうが、俳句では地名の羅列は珍しくないのでは。

神野 野 「花の闇」だとまだ足りないかな…。

 関  きれいに出来ている句ではありますね。

杉本  「猿楽」が生きてる気がするんですけどね。

神野  そうですね、「猿楽」がなかったらダメですね。

 関  代官山と恵比寿だけでは気取った所ばかりに。

杉本  なかなか書けない味わいがあると思うけどな…。「むやみにはあけびの色を他言せぬ」。こう言われると、あけびの色の別の表情を、一瞬見たような気がします。

野口  「むやみには」に、字数合わせ感がありませんか?

神野  「あけびの色を他言せぬ」は魅力的なフレーズで惹かれますが、そこからどこまでいけるか、というところで「むやみには」は緩んでしまうような感じがします。

 関  この「むやみには」には、ポエム臭がある。

杉本  ああ、そう…「白襖砂漠の音をとどめけり」も、確かにここで初めて聞いた幻聴のような砂漠の音。

 関  白襖の句はいいですね。

神野  私も、白襖の句、好きですね。

杉本  いいでしょう?

神野  最後の「とどめけり」まで、みなぎっている感じがしますね。白襖の白が、普通の白には見えなくなってくる。ああ、砂漠の音があったのか…と、まさに初めて、この真実を見た気がします。

杉本  なかなか、書けそうで書けないと思う句がありますよ。

野口  今挙げたような句を、新しいと思われるのが意外でした。『大いなる項目』を杉本さんが持ってくる、というのは分かるんですけど、これは意外。

神野  俳句をしている人間、少なくとも我々には、杉本さんがおっしゃるほどには新鮮に見えないというのは、面白いですね。というのは、この路線の俳句で、この人の句が筆頭に来るかといわれれば、他にもう少し挙げられる人があると思うから、そういう反応になるんだと思うんですよ。

野口  うんうん。

神野  でも、俳句の旨みをよく吸収して作っている句だと思う。杉本さんにこうした句が新鮮に見えるということは、俳句がこの何十年間で培ってきたものも、悪くはない、ってことでしょうか。『残像』では、現代の俳句のスタンダードになっているタイプの句の、書き方や情感がしっかり実現されている。それは、決して有住さんだけの持っている個性ではないけれど、現代の俳句がもっている資質ではあると思いますね。だから、有住さんの句を通して、杉本さんは、現代俳句の遺産にアクセスしている。

杉本  うーん、フォローありがとう、でもこれは、相当な、多勢に無勢状態になってしまいました(笑)。

野口  打ちひしがれていらっしゃる(笑)。

杉本  これほど、ばっさばっさと切られるとは…こまりました。有住さん、ごめん。僕はセンスあるなぁと思って読んでたんだけどね、返り討ちにされてしまった…とても痛いです(笑)。

(次回は、もう少し杉本さんと詩×俳句のお話。西脇and朔太郎の俳句を紹介します)