杉本 身も蓋もないことを言うとね。『大いなる項目』を見ていると、この書ではじめて出現した幻のようなものが随所にあって、そういうものが出てくると、ぼくとしては非常に惹かれちゃうところはある。
神野 たとえば?
杉本 たとえば、この句ですね。
千万の菫咲かせてわが死角 四ッ谷龍
杉本 「死角」という言葉がいいなあと。「北風吹けり人に死角というものあり」。これも死角ですが、この「死角」というのは、ここで初めて教えられた存在であるという感じがして、わたしは惹かれてしまいますね。
関 四ッ谷さん、祈りを通して別の時空にいっても、いきなり自分が神様になっちゃうわけじゃなくて、いちおう一個人の枠組みを持って異界に参入してるわけです。その個人の限界というのが、「死角」というところに出てくる。
杉本 こう言われないと気がつかないで一生終わるんだけれども、「千万の菫が咲いている」と言われたから、そういう死角が確かに今もそこらへんにあるんだな、と思う。「祈るなり百万の独楽回るなり」の句と相当迷って、ひと駅乗り過ごした句ですね。
神野 「千万の菫」の句、いいですね。好きですね。
関 素朴にリアリズムとして読める句かというと、これも微妙なんですよ。「咲かせて」というのは、この場合、俳句的に気取った言い方としての「~させて」ではない。
神野 『大いなる項目』を読んでいると、〈わたし〉〈我〉というのが非常に強く凝ってますよね。祈るという行為自体も、わたしを醸すようなもので。
杉本 この句集自体が、その前提で書いてるよね。
神野 「わが」という単語そのものが出てくる句も、たくさんありますしね。だから「咲かせて」という言い方も、私の存在を強く感じさせる気がします。「私の死角」の存在、と言い換えてもいいのですが。
関 「咲かせて」というのは、自分の許可としてではなくて、名前すらない咲かせている者があって、神っていう言葉を出さずに異界的な広がりを示して、その中にいる自分…という位置関係を出そうとして出て来た「咲かせて」なんです、これは。
杉本 うーん。
神野 わたしは、自分の知らない自分がさせてる、という感じで受け取ってました。死角という、自分の中にありながら見えない部分に、ユートピアとも地獄ともつかないものが存在している。
関 四ッ谷さんには、自分と自分がズレている、という句があるでしょう。これも、そのひとつですね。
神野 そうですね。
関 それは、ドッペルゲンガー的に、別の個体があるということではなくて、もっと巨大な、形がないもの…。
神野 でも、面白いですね。杉本さんが迷った2句、「祈るなり百万の独楽回るなり」「千万の菫咲かせてわが死角」、どちらも「百万」「千万」と、すごくおおきい数が詠まれてる。
杉本 くしくも。
関 現実の時空のことではないということの、断り書きですよ。
神野 なるほど。断り書きをすると、分かりやすいですよね。
杉本 もし575の制約がなかったら「千万」という言葉を出すかなあ…。
神野 それはプラスの意味でいってます?
杉本 うーん…この句に関しては成功してるからいいんだけど、敢えて575ではなく書く場合、「千万」を出すかな…。「咲かせて」は575の制約がないと、別の言い方になっちゃってるような気もする。
神野 そういうことであれば、俳句の575という形式があるから書ける詩もある、ということですね。
杉本 この句集で、硬質に見せてもらった幻の力っていうのは、並々ならぬものがありましたよ。そういう俳句があまり俳句の世界で買われない気がするのが、いつも歯がゆくてですね、それで強引に持ってきたのが、もう一冊…。
野口 もう一冊あるんですか!
杉本 有住洋子句集『残像』(2009年8月・ふらんす堂)です。三年くらい前の。
関 読んでいないですね。
杉本 これも、私は「ふらんす堂通信」の連載で書いたんですけど、見事に誰も俳句のひとが取り上げないから、なんでだろう?と。単純な意味での言葉の技量っていう意味で、本当に強く推したいですね。
関 栞で抽出されている句を見る限りでは、ふつうの俳句ですよ。
杉本 あれ!?そうですか。
関 きれいなものを書いている、っていう。
野口 はい、やさしい感じがする句集だと思います。たおやかで女性らしい雰囲気というか。
神野 わりと、俳句の世界では、あるタイプの句かな…。杉本さんが引用している「一の宮二の宮三の宮椿」、これなんかはたとえば黒田杏子さんの「一の橋二の橋螢ふぶきけり」を思い出す、パターンですね。
関 この人は、この世の中の目に見えるものだけで完結しています。祈りを通して別な時空にいっちゃうというような要素は一切ない。
神野 うーん…そこまでは言わないけど…。
杉本 気配としては、半歩くらい現実を超えていくような、ふっと誘う言葉のはたらきがあるように思えるんですが…。
関 これは、俳壇的にはよくある句です。誰も抵抗なく読めて、いい句集でしたね、という。
杉本 これなんかも、地名を並べてるだけだけど、なかなか出せない何かが…「代官山恵比寿猿楽花の闇」
関 詩では、これやりにくいでしょうが、俳句では地名の羅列は珍しくないのでは。
神野 野 「花の闇」だとまだ足りないかな…。
関 きれいに出来ている句ではありますね。
杉本 「猿楽」が生きてる気がするんですけどね。
神野 そうですね、「猿楽」がなかったらダメですね。
関 代官山と恵比寿だけでは気取った所ばかりに。
杉本 なかなか書けない味わいがあると思うけどな…。「むやみにはあけびの色を他言せぬ」。こう言われると、あけびの色の別の表情を、一瞬見たような気がします。
野口 「むやみには」に、字数合わせ感がありませんか?
神野 「あけびの色を他言せぬ」は魅力的なフレーズで惹かれますが、そこからどこまでいけるか、というところで「むやみには」は緩んでしまうような感じがします。
関 この「むやみには」には、ポエム臭がある。
杉本 ああ、そう…「白襖砂漠の音をとどめけり」も、確かにここで初めて聞いた幻聴のような砂漠の音。
関 白襖の句はいいですね。
神野 私も、白襖の句、好きですね。
杉本 いいでしょう?
神野 最後の「とどめけり」まで、みなぎっている感じがしますね。白襖の白が、普通の白には見えなくなってくる。ああ、砂漠の音があったのか…と、まさに初めて、この真実を見た気がします。
杉本 なかなか、書けそうで書けないと思う句がありますよ。
野口 今挙げたような句を、新しいと思われるのが意外でした。『大いなる項目』を杉本さんが持ってくる、というのは分かるんですけど、これは意外。
神野 俳句をしている人間、少なくとも我々には、杉本さんがおっしゃるほどには新鮮に見えないというのは、面白いですね。というのは、この路線の俳句で、この人の句が筆頭に来るかといわれれば、他にもう少し挙げられる人があると思うから、そういう反応になるんだと思うんですよ。
野口 うんうん。
神野 でも、俳句の旨みをよく吸収して作っている句だと思う。杉本さんにこうした句が新鮮に見えるということは、俳句がこの何十年間で培ってきたものも、悪くはない、ってことでしょうか。『残像』では、現代の俳句のスタンダードになっているタイプの句の、書き方や情感がしっかり実現されている。それは、決して有住さんだけの持っている個性ではないけれど、現代の俳句がもっている資質ではあると思いますね。だから、有住さんの句を通して、杉本さんは、現代俳句の遺産にアクセスしている。
杉本 うーん、フォローありがとう、でもこれは、相当な、多勢に無勢状態になってしまいました(笑)。
野口 打ちひしがれていらっしゃる(笑)。
杉本 これほど、ばっさばっさと切られるとは…こまりました。有住さん、ごめん。僕はセンスあるなぁと思って読んでたんだけどね、返り討ちにされてしまった…とても痛いです(笑)。
(次回は、もう少し杉本さんと詩×俳句のお話。西脇and朔太郎の俳句を紹介します)