神野 今日は、はじめて詩人のゲストをお呼びしました。杉本徹さんです。
杉本 よろしくお願いします。句を選んでいたら、ひと駅乗り過ごしてしまいました(笑)。
神野 あらら(笑)。杉本さんとは、俳人と詩人で行っていた勉強会でご一緒したのがご縁でしたね。
野口 最近では、2009年に詩集『ステーション・エデン』(思潮社)を出されましたし、昨年12月に発行された「それじゃ水晶狂いだ!」という同人誌にも参加されてます。スピカにも、素晴らしいクリスマスプレゼント「霙のち鈴――2011.12.25」を下さいました!そのせつはありがとうございました(ぺこり)。
神野 ふらんす堂の会報「ふらんす堂通信」では、もう何年も俳句についての文章を書いていますね。一冊を取り上げて書き起こすというスタイルで、たましいの深いところで現代俳句と心を通い合わせている詩人です。
野口 それからもう一人、関悦史さんです。よろしくお願いします!
関 お願いします。早く着いたので、古本屋で物色していました。
神野 関さんには昨年、SSTのユニットとして「よみあう」に参加していただいたので、二回目のお願いになります。関さんは、先に詩を読んでいて、それから俳句へと移ってきたということで、詩人の杉本徹さんと、私たち俳句の人間との、どちらの見方も有しているハイブリッドですね(笑)。
野口 関さんも、去年の末に第一句集『六十億本の回転する曲がつた棒』(邑書林)を出されましたね。各所で話題になっています。すでに、前回の週刊俳句×スピカの「よみあう」でも、「皿皿皿皿皿血皿皿皿皿」を取り上げました。
神野 今日は、お二人の化学反応も含めて、楽しみたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
野口 ではまず、誰に口火を切っていただきましょうか…やはり杉本さん?
杉本 えっ、わたしですか!
神野 杉本さんの推薦句は…
杉本 ここにどーんと置いてあるから分かると思うんですが…
野口 そうですね(笑)
杉本 もう、これしかないと思いましたね。
杉本 『大いなる項目』(2010年11月・ふらんす堂)です。この句集から一句選ぶというのは難題で、かなり悩みました。
関 わりと連作になってますからね。
杉本 そう、そう。これ、一冊でひとつのかたまりだよね。そういう意味でも、非常に詩集と近い手触りがある句集だな、と。昨日の今ごろ、ふらんす堂に詩人たちが数名集まったんですが(詩人と虚子。)、この句集を、何人かの詩人に読んでもらうことができましたよ。それはさておき、「ふらんす堂通信」の連載で以前、『大いなる項目』を取り上げたとき、自分なりの選をしていますから、そこから当然選ぶことになるわけですけど…電車を乗り過ごしながら、結局選んできたのが、この句です。
祈るなり百万の独楽回るなり 四ッ谷龍
(『大いなる項目』ふらんす堂、2010)
杉本 「なり」「なり」と繰り返されてますね。
関 「祈るなり」の連作があるんですよね。句集の最初のほうだ。
杉本 そうそう。最初はね、る理さんと関さんの句を選んでこようかと思ったんだけど…
野口 いやいやいや(笑)
杉本 この一冊が連作的な構成になってるんだけど、連作でもないんだよね。連作っていう言葉はあんまり使いたくない。高橋睦郎さんは「連作という形は俳句として、いけない」という趣旨のこと言ってましたよね、たしか。一句で言えないから寄せ集める、というのはいけない、って。そういう意味では、四ッ谷さんの句集は全く連作ではない。さりとて、一冊で明らかにトーンとして芯を通しているものがある。しかもこれだけ強く芯を通している句集って、ほかにあまり見たことがなくって。類似品あるのか、聞いてみたいくらい。
関 うーん。
杉本 しかも、トーンが高いんだよね。高いトーンで、刻みつけるように、いくんだ最後まで。その一貫性というのが、俳句から詩への通路のひとつの良い達成かなと思いました。だから、一応は一句選んだけど、この句は、句集のテーマをかなり集約している句じゃないかと思ったので。
神野 俳句の場合は、書き下ろしというよりは、一定期間に書きためたものを構成し直して句集にするほうが多いと思います。『大いなる項目』は、書き下ろしの要素が強いですね。つまり、一句一句の結びつきが強い。
杉本 そう、一冊にする意味が強烈に来る、得がたい書物だと思いましたね。いい意味でも、ふつう、句集を読んでいると風がすーすー通っていて、作っている主体がいろんな方向を向いて、日々の暮らしがそこに透けてみえる感じがあるんですけど、この句集はないよねそういうところが。そこが好きです。
神野 うんうん。
杉本 これって、俳壇内部としては、評価されたの?されてないの?
神野 あんまり見ないですね。
杉本 だよね。
関 四ッ谷さん本人が、そんなに広く献本していないのでは。読んだ人自体が少ないかもしれない。
杉本 俳壇で語られないとするならば、残念ですね。
関 私は、四ッ谷さんのやっている「むしめがね」という雑誌で句集論を書いてくれと頼まれて、結構長めのものを書いたっていうことがありました。四ッ谷さんの知人でフランスの詩人が書いた、冬野虹論と一緒に載りました。フランスの人にも割合分かるような句かな…。
神野 そうですね。意味で読ませる句だと思いました。
杉本 関さん以外で、この句集のこと書いた人っているんですか?
関 誰かいたと思いますけど。総合誌には必ず、時評や書評のページがありますから。
野口 小誌スピカではこれまで、「くしゃくしゃの祈りをひらき祈るなり」、「夾竹桃「自分をふるいたたせろ」と言う」、などを取り上げましたね。そもそも、四ッ谷龍という作家自体が、俳壇ということを意識していないのかもしれません。彼も「昭和三十年世代」(小川軽舟著『現代俳句の海図』角川学芸出版・2009年)ですよね。その括りには入っていない、という。この句集も、句集として王道かと言われると…
杉本 王道じゃないと思います。読んでる狭い範囲で、ですが。
野口 だからこそ、読まれるべきだとは思うんですが。
関 メインストリームではない感じはしますね。
野口 メインストリームが「昭和三十年世代」と呼ばれるあたりなんだとしたら、四ッ谷さんも含まれるはずですよね。四ッ谷さん自身が、意識していない、いや、もしくは意識的にそこから外れようとしているのかな。
関 結社システムの中からは逸れてきた人ですよね。藤田湘子に師事していましたが。
杉本 この完成体の句集に対して、手のつけようがないじゃないですか。ここはこうしたほうがいいとか、そういう隙がない。結社的な俳句というのは、すごくいいものであっても、共振が可能なものが出来上がっている気がするんですよね。先生はこういうスタイルで、それをどことなく真似るようなところがある。でも、四ッ谷さんのは孤絶している書き方で、これで弟子とか言っても、師系が続きようがない感じがする。そこらへんが、僕の惹かれてしまうところかな。
神野 私は、四ッ谷さんの句って、内容には惹かれるんですけど…。百万の独楽と祈り、壮絶で…聞こえない音がしそうで。ただ、「なり」「なり」みたいなのって妙に俳句的な技法のパターンで、ゆるく見えてしまう。一句の強度というのか…書き方も、ガリガリ書いてほしいと思ってしまいます。藤田湘子が二物衝撃を唱えて、その例によく挙げてたのは、奥坂まやさんの「万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり」でしたよね。これも「あり」「あり」ですが、このパターン。句全体のまとう雰囲気は、結社的な俳句とは違うかもしれませんが、言葉遣いのレベルでは、やはり結社で研鑽を積んだ人なんだな、と思います。
杉本 「なり」「なり」のグロテスクな感じは、意図的にやっているわけで、そのいびつな感じも好きなんだ。
神野 なるほど。いびつさといえば、プラスに評価できそうですね。この次の句「くしゃくしゃの祈りをひらき祈るなり」のほうが好きです。実体がなくて言葉だけで出来ている句なんですけど、なぜか気持ちが分かる気がする。「祈り」という名詞があって、それをひらいて「祈る」という動詞がある、この、言葉を二段階で使っているところがユニークですよね。「くしゃくしゃの祈り」という詩語にも惹かれる。
杉本 さらに、その横の句が、私は好きなんですけどね。「祈りいるこころは糸瓜にも似たり」。
神野 新仮名に文語がシュールに混じってくるテンションは、阿部完市が使った文体を彷彿とさせますね。
杉本 「百万の独楽」の句、これは具体的な独楽じゃないですよね。でも、ここにおいては実在している、百万の独楽。
関 リアリズムには全然軸足を置いてないんだけど、それがシュールとかなんとか美学的な話ではない。なぜ「なり」「なり」で同格で並んでいるかっていうのは、祈るっていう行為の強度を通して、別次元に入ったという瞬間の句ですよ。百万の独楽というのは実在のものではないけれど、そういうバイブレーションのある祈りの別な時空に入った、っていう。その前の句「祈るなりわが骨を歯をきしませて」にも同様のバイブレーション…振動はあるんですけど、ここではまだ肉体は残ってるんです。そこから、祈るだけの、抽象的・神学的な時空に入っていく。それをごくリアルなものとして感じさせるために、百万の独楽というのが出てくる。
神野 うん。
関 だから、百万の独楽は、象徴とか喩えという回路を通してますけど、それだけにとどまらないですね。ある過剰な振動だけを伝えるために出てきてる感じがしますね。
神野 実際、この句を読んで、百万の独楽がまわっている映像を想像するかと言われれば、しないよね。
杉本 そうとうばかばかしい像だよね(笑)。六十億本の棒に匹敵するほどの…
神野 具体的なものではない、ということは、一読了解できる。
杉本 「祈り」の連作の中にある句ですけど、この句に関していえば「百万の独楽」という言葉のほうが先にあったのではないか、という気がします。そこらへんも好きなところで。「あ、この言葉は来たな、来た言葉だな」と。
神野 「百万の独楽」とか「くしゃくしゃの祈り」とか、詩語として魅力的。
杉本 「くしゃくしゃ」は神野さんらしいね。琴線にいくな、って分かる。
神野 あれ、そうですか(笑)。
関 「くしゃくしゃの祈りをひらき祈るなり」って、体勢を立て直して、また祈ってるんだよね。この連作の中では、祈るという行為を通して、祈る自分と普通の自分の、分裂と統合…その距離の振幅がずっとある感じがして、ここでは祈りで凝り固まって、自分の思念だけで固まってしまって、祈りの時空から外れそうになったんで、もう一回姿勢をくつろげて入り直す、っていう感じの句ですよ。
神野 ふーむ。
関 「祈りいる我より鈍な我があり」、これは自分がふたつにズレてますね。「祈るなりああわれらが砂は鳴っているか」、ここで「われら」と、他者が出てくる。「祈る」っていうのは、自分の思念の押しつけだけの「祈る」ではなくて、それによって別の祈りの時空に入る。そこを通してでなきゃ会えない「われら」というのが形成されているか、そこまで振動が達しているかどうか。自分ひとりの祈りを突き詰めていくんじゃなくて、それによって別の時空を介して、ひとの処へ達する。そこまでの思念の強度が含まれている連作でしょうね。
杉本 たしかに、そう読むと、そう読めますね。四ッ谷さんはそこまで考えて書いているのでしょうか。
神野 どうでしょうね、ある程度、構成意識はあるでしょうけど…。
関 作っているときは、これだっていう手ごたえをたよりにしているんじゃないでしょうか。
野口 勢いがある。計算して作っているというよりは、発露する感情があるというか…
神野 そう読みたいですよね。
関 設計図式の連作ではないですね。
野口 計算高いとしたら、ちょっと興ざめなところがある(笑)。
杉本 それほど時間の感覚は置かずに書いてる感じがしますね。推測だけど。
神野 そう感じさせるものが、句にあるってことですよね。
野口 それは何でしょうね。テンションとか、熱さ…
杉本 そうとう数を削ったという話は聞きましたから、実際には時間をかけているのかもしれないですね。
(次回も、四ッ谷龍『大いなる項目』を読みながら、文語の話などします)





