2012年4・5月 第四回 萩原朔太郎と西脇順三郎の俳句

杉本徹×関悦史×神野紗希×野口る理

杉本  詩の書き手の多くが、意外に、なかなか俳句の実作レベルのことを理解していない、ということを実証するために書きぬいてきた俳句があるんですけど…。

神野  なんですか?

杉本  萩原朔太郎と西脇順三郎の俳句です。

ブラジルに珈琲植えむ秋の風  朔太郎
珈琲薫るじやすみんの窓あさぼらけ 順三郎
黄金の木の実落つる坂の宿 順三郎

杉本  昭和10~11年ごろ、大森の西村月杖という俳人の句会に出たときの句です。この人って有名なんですか?

 関  いや、全然知りません。

神野  分からないですね。

杉本  朔太郎・西脇・室生犀星・百田宗治の4人が、一時期この句会に出入りしていたらしいのです。

 関  結構えらいメンツが集まってますけど…!

杉本  そうなんです(笑)。

野口  うーん・・・昭和10年ってことを換算すると、面白い句なのかな。

杉本  どうひいき目に見ても、両者とも俳句を分かってないね、という感じでしょ(笑)。これ、句会で出されたら…。

神野  まあ…「坂の宿」は、ないですね。「黄金の木の実」まではいい感じなんですけど…

杉本  そこは完全に、西脇語彙ですね。

神野  どんな西脇俳句が…!と期待してしまいますが、最後「坂の宿」かぁ…と(笑)。

野口  俳句風にしてみました、っていう感じ。珈琲とジャスミンって、香りがすごそうですね(笑)。

杉本  顔を近づけすぎると、西脇先生のテイストに反する濃厚な香り。でも、なんでブラジルに珈琲植えようって思ったんだろう、朔太郎が。

 関  日本から渡ったブラジル移民が頭にあるんでしょう。

杉本  題としては、珈琲を詠めってことだったんでしょうかね。一度でも、朔太郎はブラジルに行きたいと思ったことはあるだろうか、ないと思うなあ。

神野  ふらんすに行きたしとおもへど…。

 関  嫌な軽さですね、この俳句は。

杉本  あの『氷島』を書いたあとですよ、これ。

 関  詩人は、俳句にあんまり深入りしないほうがいいですね。このレベルで済んでるうちは不慣れと笑って済みますけど、俳句形式に深入りしたら、詩のほうには戻れませんよ、たぶん。

杉本  そう思いますね。室生犀星は、わりといいと思いますけどね。

神野  そうですね。「杏あまさうな人は睡むさうな」。今でも、ある程度キャリアのできた詩人が、俳句を書き始めることがありますよね。なぜ詩人は、俳句を作りたくなったりするんでしょうか…聞いてみたいな。

野口  杉本さんは作らないんですか?

杉本  ここまで俳句に足を突っ込んじゃうと逆に、…でも自分の内的必然性の歯車がカチッと合ったら、突然作るかもしれません。…現状ないな。まあ部外者の身分だから勝手に言えることもあるか、と。

野口  自分で俳句を作り始めちゃうと、評論が書きにくくなってしまうというのはあるかもしれませんね。作品と論は別、ということを差し引いても、外からの視点で書いたというほうが、受け入れやすいというところはある。

杉本  これなんか見ると、西脇先生、結構苦吟してるな。

野口  そうですね(笑)。

 関  「じやすみんの窓あさぼらけ」なんかは、ふだんの詩で出てきそうな。

神野  ふだんの詩を書く感じで俳句書くのは、やはり難しいものなんでしょうかね。

 関  西脇の場合は、長く長くつながっていかないと自分の生理を書けないから。

杉本  西脇の俳句は、エンジンがかかるはるか手前で、無理やりピッととめた感じがしますね。戦後もたまに句会に行ったりしていたようでしたが、坂道に団栗が転がってさみしい、というタイプの句ばかり作っていたようですね。

神野  へえ…俳句とはこういうものだ、という先入観がそうさせるんでしょうか。それとも、彼の本質的なところを短い言葉で表現しようとすると「どんぐりさみしい」になってしまうのか…。

 関  さみしいっていうのは、詩でもずぅっと言ってますけど…。

杉本  西脇先生のそういうときの考えっていうのは、俳句はわびしいものを捉えるものだという頭で書いているのでしょう。

 関  いまでも、小説家が俳句作ったりするときに、ありがちですよね。わび・さびだと思っている。

神野  他ジャンルの人が作る俳句を読むと、いつも、どうせやるなら自分のジャンルで書いてる感じで俳句を書いてみてくれたらいいのに、と思っちゃうんですけど…ま、そこまで真剣に俳句に取り組むわけではなくて、本業の息抜きみたいな感じなんでしょうね。

杉本  晩年のエッセイでも、筆の勢いだとは思うのだけど、俳句は人生の貧乏の味わいが出ているものを大変好む、なんて書いてましたね。

神野  外のジャンルの人が俳句を作ってあんまり面白くならないのは、俳句らしいものを作ろうとしてしまうから…もっといえば、自分のジャンルがまずあって、俳句という他界になにかを求めて来るので、おのずと既成概念の「俳句らしさ」に落ち付いてしまうのでしょうか。

 関  詩で普段緊張しているから、リラックスしようということでしょう。

神野  かといって、俳句の、575の生理というのは存在するわけで、散文や詩を書くのとまったく同じ呼吸で書いてしまうと、俳句としての達成が低い感じもする。

野口  「俳句らしさ」というのは、先入観ということですか?有季定型という以上に、内容の面で「俳句らしさ」が限定される?

 関  俳句イコール、わびしいさびしいかなしい、でなければいけないという。ヘンなオリエンタリズム。

野口  そういう俳句が好きだから、ではなく。

杉本  朔太郎と西脇は、呼ばれて、575にあてはめるのをわびしく(笑)楽しんでる感じがありますね。

神野  そうですね、楽しんでいる姿勢に好感もてますね。

杉本  そのくせ西脇は、例によって「遠いものの連結」の話で、「遠いものの連結」とは、英語だったらウィットのはたらきであり、日本語だと洒落である。俳句というのも結局は洒落であるというのを西脇は言ってるんだけど、実作には全然反映していないですね(笑)。

神野  私が大学で師事している教授は、テクスト論とか構造主義、記号論の専門家なんですが、「こんなに小説の構造について知り尽くしている自分が、もし小説を書いたら、素晴らしいものが書けるはずだ、なのに書けない」っていうんですね。構造が分かることと、生み出せることとは、また違うのかもしれない。

(次回は、関悦史の推薦句をよみあいます)