2011年8・9月 SST×スピカ (榮猿丸×関悦史×鴇田智哉×神野紗希×江渡華子×野口る理)
神野 今日は、秋に刊行を予定している、雑誌版「スピカ」の特集「男性俳句」の座談会のために、関悦史さん、榮猿丸さん、鴇田智哉さんに集まっていただきました。三人は、それぞれの頭文字をとって、SSTというユニットを組んでいらっしゃいます。男性三人ということで、いろいろお話うかがおうと思って。なら、ついでに、webの「よみあう」にも協力していただこうということで(笑)。いま、ひとしきり、「男性俳句」ないし「女性俳句」について語ってもらって、ようようひと段落したところなんですが、もうひとやま、どうぞよろしくお願いします。
SST よろしくお願いします。
野口 そういえば、猿丸さんの「グレープフルーツジュース氷もグレープフルーツジュース」って、グレープフルーツジュースでできた氷なんですか?
榮 僕がつくったイメージはそうです。
関 溶けたときに水っぽくなんないように、ってことでしょ?
神野 高級なグレープフルーツジュース。ホテルなんかのカフェで出てくるような。
野口 あーそうなんだ・・・。私は、グレープフルーツジュースがあって、氷を入れたことによって、「グレープフルーツジュース」ってものが完成したってところまでを詠んだ句だと思っちゃったんですよ。
榮 うん、うん。それもアリだね。
鴇田 えええ!そんな寛容でいいの?
野口 グレープフルーツジュースが、だんだん薄まっていくってことなのかなって・・・
榮 氷もひっくるめてグレープフルーツジュースってことでしょ?ありがとう。
江渡 ありがとうって(笑)
榮 正解はそっちだと思う。
鴇田 おいおい、なんか納得いかないな(笑)
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関 俳句関係者はあんまり読んでないんじゃないかと思って。
泉湧くヘルマプロディートスの彎曲 武田肇
(句集『ダス・ゲハイムニス』銅林社・2011年1月)
野口 プロディートス…
江渡 ヘ、ヘルマ?
関 「ヘルマプロディートス」でひとつの単語。
江渡 「ヘルマプロディートス」…(呟)
関 ヘルマプロディートスっていうのは、両性具有者。
野口 インターセックス…
関 有名な古代ギリシャの彫刻で「眠れるヘルマプロディートス」っていうのがあって、他にも彫刻作品になっているのがいくつかあるんですけど、ギリシャ神話の中に出て来た美少年で、これが泉の精だかなんだかに付け狙われて、ストーキングされて、「今だったら見られてないだろう」と思ってそこで水浴びしたら、そこで襲われてしまって、その結果、本当に合体してしまって、両性具有者になってしまった、という。
江渡 え、取り込んでしまった?
関 襲われてしまって、取り込まれて、乳房も男根もあります、という状態に。
江渡 意志はどっちのものになったんだろう。
関 意志というか、自己。
神野 神話だからね。
野口 身体的に、くっついたってこと。
関 ウィキペディアに、一応、この項目あるから。「眠れるヘルマプロディートス」という、このモチーフではおそらく一番有名な彫刻を、どっかの博物館で見てきたことがあって、横たわった裸体で、両性具有だから異様なんだけど、曲線がすごい美しい彫刻なの。古びてちょっとぼこぼこしてるところはあるんだけど。だから、その白い大理石の彫刻から、泉湧くっていう連想が、ふつうになめらかにはたらくっていうのと、「泉湧く」ってくるのは、水を浴びている最中に両性具有になってしまったという背景もおさえているのかもしれない。そこで、女性・男性の欲望の話でいくと、やはり、この句は男性の視点で詠まれているんだろう、と。つまり、女性が登場人物で視点の対象として出て来たときには、男性がそれに対して何らかの欲望をもってるんだろうということがふつうに分かるんだけど、両性具有者がでてきた場合、こっちはどういう欲望をそそのかされているというふうに見たらいいのかというのでちょっと考え込まされて。これは、美しい両性具有者に対して、男性の側から欲望を抱くか、あるいはああなりたいという欲望を抱くか。いずれにしても、この目線は、男性のものになるのかなというところまで含めて。
神野 水浴びしてるときにっていうことだから、「泉湧く」っていう季語のつけかたは、素直ですね。
関 連想がはたらく。
神野 「ヘルマプロディートスといえば水辺」といっていいくらいイコールの関係なら、この場合の季語は、ヘルマプロディートスという特殊な言葉を、補助するようなかたち、強化するかたちで置かれているというかんじですね。
関 あとは「湧く」でね。「彎曲」だけだとスタティックな形態だけで終わっちゃうんだけど、「湧く」で、それに対する動的なものが出ている。ヘルマプロディートスの生命感みたいなものもね。
神野 彎曲っていうのは、体のラインのことですよね。
関 あの彫刻を見たら、そうしかとれないんじゃないかな。両性具有っていう存在自体を「彎曲」っていってるようにも。
神野 なるほど。
関 歪んでいるがゆえの、ありえない歪みを呈した上での美、ってことじゃないかな。
榮 「歪み」ってことですか。曲線っていうより。
野口 突然変異っていうか…その…正常ではない。
榮 そういう意味での歪み。
関 「彎曲」からは読み込みすぎかもしれないけれど、両性具有は、直線の美ではないだろうな、という、そういう連想もできなくはない、というね。彫刻を見たことがあると、その彎曲を視線でなぞっていくと、ああ「泉湧く」だ、と納得するという。ああいう異形の彫刻だと、どうしてもしげしげ見ますからね。
神野 ヘルマプロディートスを句に詠んだという、それ自体も珍しい句ですよね。
関 非常に陳腐な句になりやすい素材ではあるので。でも、この句は陳腐になってないと思って。はじめのころによく読んで、最近はむしろこういうものは読まないんですけど…。
榮 「彎曲」というまとめかたはどうなんでしょうか。落とし所として。
神野 シンプルな句だなっていう印象ですよね。
榮 そうだよね。
神野 ヘルマプロディートスっていう存在のことを丁寧に説明している。
榮 「泉湧く」も素直だし。でも、ヘルマプロディートスってものを知らないと、見えない句、読めない句だね。
関 エロティシズムを詠んでるのに、「泉湧く」で清潔になっているというね。
神野 「ヘルマプロディートス」という意味を知らないでも、楽しいかもしれない。呪文のように。「ヘルマプロディートス」って、どのくらい常識なんだろう…(汗)
関 たぶん、そんなに通じないと思います。純然たる音だけとっても、「ヘルマプロディートス」って、ちょっと彎曲している音韻ではありますよね。
鴇田 うーん。自分は、あんまり反応しない句ですね。
関 意味性が強いからね。
鴇田 そうだね。意味知らなくてもいいかっていうと、そうでもない句だと思うな。韻文的な魅力っていうのも…。
榮 やっぱり、意味性は出てきちゃう。
鴇田 感情移入があると面白いのかもしれないけど。
神野 句集全体も、このような作風なんですか。
関 西洋的な教養があるってことを前提とした、耽美的なモチーフが多いですね。でも、それだけでもなくて。「明月に壊されてゐる便所の戸」とか、「六十年そこに蟲籠置く手ある」とか。「江戸の春お化け煙突美女四人」とか。もう一句、取り上げようかなと思ったのは、「狂ふとも噴水は天才である」。これは啄木の「天才である」を踏まえて、噴水は狂った天才だっていうイメージにずらされたっていうね。
神野 華ちゃん・る理ちゃんは、この句どうですか。
関 男目線の句だから、あんまり面白くないかも。女性男性、どっちでもないものっていうのが出てきても、男性目線になってしまうという(笑)
神野 両性具有への欲望は、私にはないので、よくわからない。わからないから、不思議だなと思って興味をひかれます。たとえば、インターネットや同人誌で、両性具有モノというのがありますよね。ああいうのは、やっぱり、女性でなくて、男性が見て楽しむことが多いわけですよね。
関 たいがいそうでしょう。
神野 両性具有を愛する男性って、どういう心理状況になって、そういうことになってるんだろう、っていう興味はあります。すごくねじれているような。
関 性的な商品物としてのフタナリ趣味ではなくて、女性というモチーフを出したら、それは男性と一対ではないと完全ではないという欠如体がどっかに出てくるんですよ。それに対して、完全体になってしまったヘルマプロディートスも、これはこれで、世界全体内ではなくてそこから孤立したものになってしまうという。
神野 そうですね。これはこれで、あるべきかたちではないような。
関 その異形と、美しさと、結局、完全体になったのに歪んで孤立してしまったという者への同情というか、共感というか。
榮 ただ、そこまで句に出てるかな。
関 出てない。
鴇田 うん…。こういう句って、結局、名前にゆだねられてるわけでしょ。ヘルマプロディートスっていう固有名詞に。それを知ってるか知らないかっていうことにね。
江渡 句だけ見て、意味を知らないと、ヘルマプロディートスは女性なのかなって思う。
鴇田 画家の名前とかさ。猿丸さんの句でも、人の名前が出てくるわけじゃない。そのときに、どれだけ読者が知ってるかっていう…。ニーチェが出て来たって、ニーチェを知らない人がいるわけだから。そういうときに、名前を句にいれるのはどうなんだ、っていう。
関 私は、人が知らない単語も、どんどん句にいれるほうですけど。
鴇田 そうそう、関さんもそうだけど、あの固有名詞の問題は、いつもつきまとってて。
関 分かんなきゃ分かんなくていいって、それは突き放しているわけではなくて、たとえば小学生のときに「マカロニほうれん荘」を読んでて、まったくわからないロックバンドの話とか、ミリタリーオタクの話とかがふつうに台詞に入ってて、これは分からないなりに、それはそれで楽しいわけよ。
鴇田 でも、ほら、まったく分からない名前もあるわけじゃない。ローリングストーンズをまったく知らないやつもいるわけで。
野口 「ローリング・ストーンズなる生身魂」(榮猿丸)ですね。
神野 でもそうすると、季語はどうなんだっていうことになりますよね。一般的な伝達性。時計草、知らない人は全然知らない、みたいな。
鴇田 そう、季語にも、宿命として、おんなじところはある。
榮 宿命としてね。でも、僕は「ローリングストーンズ」は分かるけど、「生身魂」は分からないって人のほうが、一般的には多いと思う(笑)
鴇田 それは、猿丸さんがそう信じたいってことでしょ。
榮 だって、芝不器男新人賞の公開選考会のとき、Kさんが「なまみだましい」って読んだからね。
鴇田 そりゃ、そういうエピソードはいろいろある(笑)「生身魂」読めない人はいっぱいいる。
神野 言語の特殊性ってことだと、季語なんてまさにそうですよね。まあ、万人が知っているというのは、そもそも無理なので、ということは、程度問題の話になってくるのかな。
鴇田 ベートーヴェンならいいけど、誰ならだめなのか、みたいなね。
榮 僕は、実作者としては、関さんの考え方に近いね。知らなくても面白い俳句って、理想ですよね。
鴇田 いや、むしろ、知ってたくないっていう。僕は、そう思うんですよ。知ってても、知ってるっていいたくない、みたいな。
神野 「ジャンルっていうものがあるからしょうがない」ってことになるんじゃないですか。哲学系、J-POP系、クラシック系、俳句系…。
関 知らない単語が出ると怒る人っていうのは、確実にいるんですよね。
(次週は、鴇田智哉の推薦句をよみあいます)