2011年8・9月 第3回  滝の前だんだんわれの居なくなる  奥坂まや(野口る理推薦)

2011年8・9月 SST×スピカ (榮猿丸×関悦史×鴇田智哉×神野紗希×江渡華子×野口る理

滝の前だんだんわれの居なくなる   奥坂まや
(句集『妣の国』ふらんす堂・2011年6月)

野口   新刊句集『妣の国』から選びました。紗希さんの推薦句(次週とりあげます)「坂道の上はかげろふみんな居る」と対になる句かと思いまして。滝の前に居ると、だんだん、自分というものがなくなっていくような気がするっていう、印象を詠んだ、分かりやすい句だと思いました。

 関   「居なくなる」って感じを直接言われることによって、滝の方はいつまでたっても消えそうにないし、自分自身も「居なくなる」と言いながら、いつまでも消えられなさそうな感じが。

野口   その閉塞感というか…逃げられないというか…。

 関   錯覚を味わいながら、かえって、滝の現前感をぽんと出してるような感じがする。

野口   それが逆にレトリックなのかなという気がしたんです。「我が居なくな」りきっちゃうわけじゃない、「だんだん」っていうところで、自分の心象風景としての我が、いなくなる気がする、っていう。

神野   近代的自我。

 関   滝を見ることによって、無我の境地に至る、っていう。

野口   「わたくし」性が揺らぐ、というか。滝にとりこまれるような。

 関   自我が消滅していく過程ね。

野口   「前」まで書くのが説明的かもしれないんですけど、そういう気持ちになるなる、っていう。「坂道の上はかげろふみんな居る」っていう句もとても好きなんですけど、句の背景を思いすぎちゃうというか。「みんな居る」っていうのと、「居なくなる」っていうので、対になってくるかなって。

 関   これに関していえば、仏の教えを説いたもので、「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」と僧が詠んだら、御師匠さんに「こんなんじゃまだダメ」と言われて、それで作り直して「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と。「声ばかりして」だと声を聞いてる自分が残ってるからまだダメ、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」だと、ほんとうに声だけになっている、と。そういう意味では、この句は、まだ自分が残ってる句ですよね。

野口   「われ」が残ってる、っていうのも含めて、人間らしい。っていうとちょっと陳腐ですけど、リアリティがあるのかなと。逆に「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」の世界は、リアリティはない、というか。

神野   滝の前で無我の境地になっていくっていうこと自体は、あんまり目新しい発見ではないですよね。むしろ「の前」っていう言い方をしているところが面白い。

野口   ま、滝に打たれちゃったら、ねえ(笑)

神野   そうそう(笑)「前」ってどのへんだよ、っていう、ちょっと大づかみな感じが面白い。

 関   「~の前」つながりでいくと橋本多佳子の「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」を思い出すところが。

鴇田   この句は「前」がうまいんだよね。「滝」でなく「滝の前」と言ったところが。「だんだんわれの居なくなる」だけだと、「滝」じゃなくても、他の季語でも置き換えられちゃう感じがするんだけど、「滝の前」って言たことで、説得力を持たせてる。「これは季語は動きませんね」と、読者に言わせる雰囲気に仕立て上げている。

 関   たとえば、鴇田さんの句というのは、「われの居なくなる」と説明的なことを言わないで、居なくなっている状態を詠んでいるのかなと。

鴇田   うん。自分の場合は確かにそう。「われの居なくなる」っていう言葉は、説明なんだよね。「われ」というものは、いなくなるものだと思うけど、それを、「われの居なくなる」って言ってしまったらおしまいだと、自分は思っていて。自分の場合は、「われの居なくなる」という現象がどんな感じなのか、その現象自体を、言葉によって立ちあがらせたいと思っている。

野口   うんうん。

鴇田   滝なんか見てれば、我は居なくなるんだと思う。いや、滝に限らず、それはものを感じていれば普通のこと。むしろ、「我」とは、当然居なくなるものです。ただ、それをそのまま「われの居なくなる」と言ってもだめなはずなんだけど、この句の場合は、そこを、「滝の前」って言う言葉を使うことで、読者に納得をさせている。

 榮   僕は、「滝」っていうものへの挨拶だと思いましたね。

神野   まやさんは、俳句を「季語へのお供えもの」だって表現してましたね。

 榮   うん、「季語の喜ぶ句」っていう、飯島晴子の言葉を高橋睦郎さんがこの句集の「祓」で紹介していましたけど。要するに、自分を消すっていうことで、滝への挨拶をしている、と思いました。

 関   下半分は謙譲なんだ、これは。

 榮   「だんだんわれの居なくなる」っていうことで、滝の圧倒的なスケールとか見えてくるじゃない?滝の描写をするんじゃなくて、自分を消すってことを言うことで、逆説的に滝を見せる、っていう。そういうことで挨拶句なのかな。

神野   そう取りたいですね。

鴇田   「前」ということで、印象が映像的になってくる。たとえば「滝にいて」とかいろいろあると思うんだけど、「前」で映像的に…

神野   真向かってる感じが出ますよね。

 関   「滝見えて」でなくて、意図して滝の前にいる感じがする。

神野   それでは、改めまして。私の推薦句も、同じ『妣の国』からです。

(次週は、神野紗希の推薦句をよみあいます)

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