2012年4・5月 第五回 餅搗の搗き込むつよき光をかな  小川双々子(関悦史推薦)

杉本徹×関悦史×神野紗希×野口る理

 関  小川双々子という、6~7年前に亡くなった前衛系の俳人がいるんですが、亡くなって数年経ってから、身内の人がまとめた句集です。『小川双々子全句集』(私家版)。この人は、キリスト教の信仰があって、それプラス前衛俳句の傾向として、社会的な厳しいハードな硬い冷たい悲惨なものを詠んでいます。それが、さびしい一方、絶望一方ではなくて、信仰が独自の味わいを加えているという、特異な作家なんですね。

神野  告発ではない、ということですね。

 関  社会悪を下から撃つというタイプの前衛ではない。他界的なもの、霊的なものに対する感性が非常にある人です。電車の中で選んできたのがこれです。

餅搗の搗き込むつよき光をかな  小川双々子

神野  「光をかな」。「を」!?

 関  ちょっと変わった、破調の句ですけども。

神野  「光かな」と思ったら、「をかな」…光を搗き込むという発想は俗だけど、言い方が面白い。

杉本  一瞬、誤植にも見えるね。

 関  この人、存在しない者をなんとか俳句の中に取り込んでいく、ということを句集全体でやってるんですけども、そうすると、餅搗きのときに搗いてこねて搗き直して、白い餅の中に光が搗きこまれて行く感じっていうのは、素朴に分かりますよね。それだけを言おうとしたら「を」はいらないんですよ。「餅搗きの搗き込むつよき光かな」で、伝統俳句的にきれいに出来ちゃう。

野口  うんうん。

 関  でも、それをやりたいわけではない。もう一歩踏み込んだ、それこそプラトン哲学でもキリスト教でもなんでもいいですが、本質…本当の世界は物質世界ではないところにあるというのを探る哲学的な営為があってですね、本当の世界のことにモノの手ごたえをとおしてたどり着きたい、みたいなことを、彼はずっとやっていまして。それを踏まえての「光をかな」なんです。

神野  なるほど。

 関  俳句のテクニック的には、餅搗きの「つき」、それから「つきこむ」「つよき」と、頭韻を踏んでいて、K音の連続した現れ方もあって、わりとなだらかに作られている。餅搗きの季題としての本意みたいなことに拘ると、こういう超越的なところにはなかなかいかないで、正月の準備でめでたいとか、賑やかなほうにいきそうなんですけど、この句は、双々子の世界観の中に季語が取り込まれている形ですね。正月の餅だから聖性があるというのとはたぶん別の形で、他界の聖性の強いものが入ってきてる。日常の些細な場面の中に、たまたまふいに介入した「つよき光」という他界的なものを捉えた言い方ですね。

野口  「をかな」はなかなか出来ないですね。

 関  「を」のあと、光をどうするのかという述語の部分がないんですよ。

神野  「を」ということで、述語を省略していることを、見せている。

 関  「餅搗きの搗き込むつよき光を見き」とかにしちゃうと、見て詠んでる自分と、光る餅とがわりと単純に併置されちゃうわけです。光の顕現に打たれてそれをどうしていいのか分からないような、宙づりのサスペンス感が出てきますね。

野口  これは、「つよき光を」搗き込むってこと?倒置法ではなくて?どこに「を」がかかってるんだろう、って考えた時「搗き込む」なのかなって。

神野  「を」を入れなかった場合は、光が固定されちゃうよね。餅、どさっ、パァッて。

 関  単に物質の世界の話で終わっちゃう。

神野  でも、「を」ということで、動きが入ってきますよね。「搗き込む」という言葉とあいまって、餅が変形しながら搗きあがっていくときに、光そのものも変形し続けていく感じが「を」で感じられる。

 関  「つよき」も結構、くせものですよね。

神野  そうですね。弾力を感じますね。

 関  何かの中に何かが搗き込まれる、鋤き込まれるという描写自体は珍しくなくて、その日常レベルの現象ではないぞというところが「つよき」でも出ている。

神野  本当に、餅搗きって、こういう感じなんですよね。

 関  実感に引きもどしきって読むのはどうかと思いますけど。

神野  ストイックなんですよね、餅搗きって。だんだん、餅しか見えなくなってくる、思念がどこかにいって、餅が搗き上がるまで、ただ餅と向かい合ってる。その感覚でもってみると、餅が、ゆらめいている光のように見えることもあるなあって。

杉本  餅搗きしたことあるの?

神野  毎年おおみそかに、実家でやってるんですよ。

杉本  幅広い、百科全書的な神野紗希ですね…。

 関  となりには「シュルレアリスト」という語を詠みこんだ句もあって。これも日常にある景色を書いてはいるんですけど、たとえばバルテュスの絵なんか日常の場面にすぎないものを書いても光の具合とかでこの世のものならぬヘンな雰囲気を漂わせるでしょう。それに近い雰囲気を、餅搗きから引き出したという感じがします。

杉本  本当に「つよき」が効いてますね。「つよき」と「を」がなかったら、ほんとうに、ほんとうに凡庸な…(笑)。

 関  「を」で宙づりにしたあげく、「かな」で止めて、これで安定させてるんですよ。

杉本  こんな終わり方って、他に例句あるの?

 関  名詞や体言の下に「かな」がつくのは普通で、「歩くかな」のように用言につけることもできる。でも助詞は…

野口  「にかな」はあるんじゃない?

 関  中村安伸さんの句で「街娼をドイツの城のやうにかな」っていうのがあったはずですけど。

野口  でも「をかな」はないですよね。「コウをかな」ではなくて「ヒカリをかな」ですよね、やっぱり。

 関  字余りでしょうね。この句集、他にも全体にヘンな句が結構あって。「霜流るシュルレアリスト白脛を」。

杉本  うーん、一瞬惹かれるんですが、よく見ると意味が分かりません。

神野  いい感想ですね(笑)。

杉本  意味が分からないのは、わたし好きなんですけど、分からなさが単に分からないだけで終わっちゃうからな。

 関  この全句集、たまたま796句入っているのが、わたしの句集(『六十億本の回転する曲がつた棒』邑書林、2011)の収録句数と一緒で。

野口  おお!

 関  全部読むと、えらい数になって。

杉本  それは多いですね。

神野  これも面白い、「桜蘂ロボット力に降りそそぎて」。「ロボット力」って(笑)。

野口  女子力みたいな(笑)。

杉本  ああ、こういう句作る人なんですか。いいじゃないですか。

 関  ロボットだけじゃなくて、いろんなものを取り込んでるんですよ。東浩紀のデリダ論を引用して「郵便的」っていうような語をそのまま使った句もありますし。

杉本  関さんも、神野さんの発言なんかをtwitterからじかに取り入れたりしてますよね。

神野  嬉しかったです。

杉本  なるほどね。この「ロボット力」いいな(笑)。

 関  俳人がロボットを詠んだ句って、ときどき見かけるんですけど、あんまり面白いものにならないんですよ。ロボットを、いかにも伝統的な季語の世界に配して、どう面白いでしょう?っていうものになりがちなので。

杉本  では、この句はロボットアンソロジーのなかで、名作のほうですか。

神野  珍しいタイプの句ですね。

 関  ロボット自体ではなく「ロボット力」というヘンなものですから。

神野  うん。これでロボットに降り注いでいたら…

 関  どうでもいい句ですよね。

神野  ふつうの句ですよね。アトムみたいな。

 関  あ、鉄腕アトムの句がある。「再生〈鉄腕アトム〉つらぬく蝉声や」。

野口  好きなんだ(笑)。

神野  「ロボット力」からのアトム(笑)。

 関  「いらく・くらいほたるぶくろを提げて来よ」平仮名の「いらく」は何でしょうかねこれは。

神野  たぶん、戦争の「イラク」じゃないですか。国名というべきか。

 関  小川双々子は、湾岸戦争のときも生きてたから…。

神野  それで「いらく・くらい」と回文にした。

野口  あ、「泣く」ってこと?

神野  「cry」?

野口  いや、ふつうに「暗い」か。

神野  そうだね、わたしは「蛍袋が暗い」につながるのかなと思った。

 関  この句が湾岸戦争を踏まえているのだとしたら、蛍袋というのは、小さくて地味な植物ですけど、「くらいほたるぶくろを提げて来よ」っていうこの言い方で、遠いイラクに対して内面的な感応を示している。

神野  蛍とか蛍袋っていう素材は、よく、たましいとかね、命みたいなものとつながってますから…

 関  連想されますよね。

杉本  植物の名前なの?

 関  白い袋状の花です(※赤紫のもあります)。

神野  花に蛍を入れて遊んだことから「蛍袋」という名前がついたといわれてます。

杉本  大きさはどのくらい?

神野  このくらいです(手で示して)。

 関  蛍が入りそうなくらいです。

神野  けっこう、俳人の好む季語ですね。

杉本  「ほたるぶくろ」が、植物の名前だと思わないで読んでいると、またシュールな句に見えます(笑)。

神野  「いらくくらいほたるぶくろ」を、ぜんぶ平仮名にくずしているので、シュールなところへ連想を誘うのかもしれませんね。単に植物としての蛍袋を指した、というだけではない。リズムで「いらく」「くらい」「ほたる」「ぶくろ」と分けたくなる感じもする。

 関  ディメンションをずらした。前衛系だから、玉砕とか国家とか、戦争関連の用語は多いですよ。

神野  いま、さっと句集をめくった感じでは、その「さきの戦争系」の句はあんまりピンとこない感じですね…。

杉本  成功していない句は、漢字のごてごて感が気になりますね。

野口  そういえば、このひとの代表句っていうと、何になるんですか?

 関  「後尾にて車掌は広き枯野に飽く」とか。長い鉄道の最後尾にいて、車掌がずっと枯野を見て飽きちゃった、っていう句。

神野  うわー、いいですね。

 関  それから…

野口  「ぷしゅー」みたいなのもありましたよね。あ、これだ。

 関  「凍蝶ぷふい!数億劫年が経つぞ」。

野口  ぷふい。

 関  この句、双々子が自分で解説を書いてるんですけど、「ぷふい」というのは、埴谷雄高の『死霊』ですよ。

野口  へーえ。

 関  埴谷雄高の『死霊』って、議論を延々とやっている小説の中で「あっは」と「ぷふい」っていう掛け声みたいなものがかかる。相手がなにかを言うときに「あっは」とか「ぷふい」といって混ぜ返したり。とくに「ぷふい」は、相手の言うことを否定して、ちょっとバカにしてる感じ。

野口  ふふふ。

 関  あざわらうというような、否定されているような状況ですよ。凍蝶に突然バカにされて、数億劫年が経ってしまう。

杉本  西脇順三郎の使う、ギリシャ語の感嘆詞とは関係ない?

 関  ギリシャ語だったかもしれませんが『死霊』のなかでは、特異な使われ方をしていましたね。平仮名で。

野口  たしかにギリシャ語の「ποποι」は、驚きや怒り、苦しみを表す感嘆詞ですね。

 関  「きさらぎ曰く私は白紙である」。これは俳人的にも感覚的に分かるんじゃないだろうか。

杉本  これはいいですね。ただ、「凍蝶ぷふい」の句のほう、この奇妙さは分かるけれど、どこか既視感がある。

神野  小さな蝶と膨大な時間。「蝶墜ちて大音響の結氷期」という…

杉本  富澤赤黄男っぽい。

神野  前例はありますね。

杉本  凍蝶の句は、コネコネしてる感じがします。如月の句はいいですね。

 関  「モノは物自体のくらさつちふれる」。これもカントを踏まえているんでしょうけど…。

野口  うーん…。

 関  これは素直に分かるんじゃないでしょうか。「つちふる」という季語もありますし。

杉本  あ、「つちふる」って季語なんですか。

 関  そうです。春になると大陸から黄砂が吹きわたって来るのが「つちふる」。

野口  この句は、ただ、季語をつけただけって感じがしちゃうかな。

神野  「闇寒し光が物に届くまで」という小川軽舟さんの句がありますよね。そちらには「物自体の暗さ」が内包されてると思うんですけど、「物自体のくらさ」とはっきりいわれちゃうと、暗さが感じられない。

 関  「物自体」っていうのは、人間が五感で感覚できないものですから。感覚できないにも関わらず「くらい」という認識があって、その認識に引きだされるようにして「つちふる」という季語があらわれるという動きがあるので、とってつけた季語という感じはないですね。

野口  うーん、そうなんですかね。

 関  漢字で書くと、暗黒の「暗」になるか、幽霊の「幽」になるか分からない。人間が認識できない領域があるぞということを、モノを通して作中主体が感じている。闇ではなくて薄暗い領域。

杉本  季語というものを全然知らずに読むと、モノ自体が土に落ちたあるいは触れたとしか読めない。

野口  「土に降る」。

神野  そちらのほうが面白い。「つちふる」という季語を出すと、その季語の磁力というか、季語の立ち上げる現実が重たいので、「物自体」という言葉がかすんでしまうような気がします。この小川双々子の句集は、手に入るんですか?(※全句集はこの遺句集より前に沖積舎から別に出ています)

 関  発行者に手紙をせば、なんとか。その方の手許にあるうちは。

神野  でも、発行者の住所をここに書くわけにいかないですね(笑)。読みたい方は、何かしらの手段で…

野口  頑張ってください(笑)。

 関  須藤徹さんにお願いすればなんとかなるかも。

 

(次は、神野紗希の推薦句をよみあいます)