2011年6,7月・第五回  夕焼が燃えつきさうな小学校  山田弘子(西村麒麟推薦)

2011年6,7月   村上鞆彦×西村麒麟×生駒大祐×神野紗希×江渡華子×野口る理

江渡   そういえば、生駒くん、会うの久しぶりだよね。

生駒   いつぶりでしたっけ・・・開成の句会・・・?

江渡   いや、たしか、電車でばったり会ったとき以来だよ!

生駒   僕が彼女を連れてるときに・・・

江渡   それ以来!

野口   素敵。

神野   「僕が彼女を連れてるときに」!(萌)麒麟くん、こういうこと言わないでしょ。

江渡   言うよー!

西村   ははははは!(笑)

神野   なんで華ちゃんが擁護?!(笑)

江渡   ちょっとはにかみながら言うんだよ。

野口   いや、麒麟さんは、聞かれるまでは言わない。聞いてほしいタイプ。

西村   やっぱ、卯波、するどいねえ(笑)

神野   二人(る理・紗希)を“卯波”と呼ぶな!(笑)

野口   麒麟さん、女が出来てから、卯波にいらっしゃらない。

神野   敬語が変・・・

生駒   皮肉ですね。

西村   いや、でも最近、また卯波行ってるよ。

野口   そうそう、だから、(彼女との関係が)危ないのかな、って。

江渡   え、それがバロメーター?!(笑)

夕焼の燃えつきさうな小学校   山田弘子
(『月の雛』ふらんす堂、2010年7月)

西村   一年以内の作品ということで、去年刊行された、山田弘子さんの遺句集を持ってきました。勝手にファンだったので、亡くなったことは、相当ショックでした。この句は、前後の文脈からすると、南の島に行くっていう感じです。山田さんは、宮古島で俳句の選者をされてたみたいなので、そっちの小学校かなあ、と思うんですけど。「さうな」って部分が、なんとも、さみしいような、やさしいような味わいがあって、とても好きです。深読みすると、夕焼けが終わるっていうのが、子ども時代が終わるっていうものが感じられて、ちょっとさみしい感じと、過ぎ去ってしまうような残念な感じも伝わってくるんじゃないかな、と。爽波に「赤と青闘つてゐる夕焼かな」という句があって、あれは読者を不安にさせるような句なんですが、この山田さんの句は、すごくやさしい。子どもたちがどうのっていわずに、小学校っていっているところもいいと思いました。

村上   今の鑑賞を聞くまで、全く違う解釈をしていたんですけど、「燃えつきさうな」って、「火がつく」ってことじゃないの?

生駒   あー・・・。

江渡   あ、なるほどっ!

西村   夕焼けが、小学校を、燃やす、ですか(驚)

村上   ずっと、そう解釈してたんだけど。ただ、夕焼けが終わりそうだってことなんだったら、わざわざ・・・・・・。

神野   確かに・・・。

野口   「尽きる」とか「付く」とか、漢字にしたら分かるんだけど。平仮名だとぶれる。
神野   「夕焼けが燃えつきている小学校」でいい、という。

村上   そう。

神野   なるほどー。私は、麒麟くんと同じで、「夕焼けが終わりそう」っていう情景だと思ってました。今調べてみたら、焔が燃え移ることを「燃え付く」とも表現するようですが、「燃えつきさう」という語彙は、ふつうだと「燃え尽きる」のほうが一般的かなと思って。「あしたのジョー」的な。

西村   白く燃え尽きちゃう、的な。

野口   私も、白くなっちゃうほうだったんですけど・・・

西村   白くなっちゃうほう(笑)

野口   燃え尽きちゃうほう(笑)けど、「さうな」には、そんなに感動はなかったという気がしますね。

村上   小学校って、やさしい場所なので、夕焼けが終わろうとしてる、ってことですかね。

西村   たぶん、これ、宮古島なんですよ。だから、きっと、すごい夕焼け。でも、山田弘子さんは、「燃え付き」っていうのをそういう風には使わないかな・・・。

生駒   燃え尽きたぜ、っていう意味だと、宮古島で、子どもがいなくなって廃校になってしまった小学校、というような意味も含まれちゃって。そんな風に批評的な意味が加わってしまうと、「小学校」が僕はちょっと・・・

神野   「燃えつき」っていうのを、どっちにとるか。

西村   僕は、今日まで、「燃え尽き」だとばかり思ってました。

野口   でも、今、聞いた感じだと、村上さんのほうが面白い気がします。

江渡   面白いね。

村上   僕のほうが、ちょっと変な解釈かもしれないね。

神野   村上さんの解釈だと、夕焼けが、小学校の校舎に燃え移る・・・

野口   ダイナミックですよね。

神野   でも、「今、この瞬間に、ああ、夕焼けが燃え終わる」っていう感じを言いとめるには、「さうな」は、のほほんとはしてますよね。そこが、南の感じなのか。

生駒   僕は、夕焼けが小学校に燃え移るっていう解釈は、陳腐に思えます。

村上   面白い、面白くないは別として、基本的な読みとして、この句をどう読むのかってところです。

西村   このままでいくと、どっちにもとれてしまいますかね。

神野   やっぱり、「つき」を漢字にして、限定してほしいという感じはしますね。

村上   そしたら、すぐに分かりますね。

野口   麒麟さん的には、「焼」と「燃」の近さは気にならなかったですか。

西村   気にならなかったけどね。むしろ、あててきてる・・・。僕は、夜が来てしまう、みたいなさみしさを感じたんです。

神野   内容を抽出すると、私も好きなんです。夜が来てしまう、っていうその喪失感のようなもの。句集全体を読んで、文脈を決定してるっていうところもありますかね。

西村   もともと、山田弘子さんの句、好きだからね。やわらかというか、分かりやすく、シンプルに、シンプルに。でも、どこか感覚が面白いっていうところ。

神野   句集で読むと、旅吟に読める。

村上   もうちょっと、一句に切れをつくってくれれば、もっと読みやすいね。

西村   僕はこのままがいいなあ。

生駒   別の問題提起になりますけど、「小学校」って言ってますが、正確には「小学校の校舎」じゃないですか。「小学校」っていう、ちょっと抽象的なものが燃え尽きる、っていうふうになると、僕は、抽象に抽象を重ねてる感じで、ちょっといただけないんですよね。「小学校の校舎」って、モノを言ってもらったほうが、僕は好きです。

野口   でも、基本的には「小学校」って言ったら、この文脈では「小学校の校舎」を指すんじゃない?「明日学校ないよ」っていうときの「学校≒授業」のように、文脈によるものとして。

生駒   そうです。それは分かるんですけど・・・

神野   この間、新聞で大根をくるむってな句を作ったんですよ。そしたら、「新聞」は抽象、「新聞紙」が具象っていわれて。「新聞」では、くるまない。そこが面白いかどうか、と。ああ、そうか、と。

生駒   別に、読めば意味はとれるんですけど、無用の抽象性があることで、一瞬、頭をひねらなきゃいけないところが、僕は厭なんです。こういう句のほうは、もっとすっと入ってきたほうが・・・と、僕は思うんですけど、抽象的なほうが入りやすい人もいると思います。

西村   僕は、校舎まで言わないで、小学校でとめたところで、勝手に泣ける。いろんなこと、これから大人になって汚くなっていくってところとかね。夕焼けが燃え尽きるところ、小学校時代、子どもたちへの思いがこもってるよね。句としても、スラっとしてる。

神野   『月の雛』っていう句集は、どうでしたか。

西村   結局、遺句集になっちゃうんだけど、ひとつひとつの句が、亡くなるってことを抜きにしても、なんとなくそれを予感されるような句なんです。田中裕明さんの、『夜の客人』(ふらんす堂)のように。たとえば「雨粒がこんなにきれい青芒」とか。シンプルで、あとになってみると、やっぱり泣けるっていう句が結構入ってて。

神野   その句いいね。

村上   いいね。解釈にブレがないね。

江渡   (笑)

野口   私も雨粒の句のほうがすきです。

西村   僕は、句の作り方として、山田さんと、川崎展宏さんを、お手本にすることが多いです。句集を読んで、ああ、こういう感じ使ってみたいなあ、とか。二人とも、すっきりしてる。言いたいことは持ってるんだけど、ごちゃごちゃ言わない。シンプルにして、読み手がいろいろ思うっていう。

神野   ありがとう。麒麟くんの目指すところが、なんとなく、また分かったような気がします。

(次回は、神野紗希の推薦句をよみあいます)

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