2011年6,7月 村上鞆彦×西村麒麟×生駒大祐×神野紗希×江渡華子×野口る理
先生が死んでおられる冬麗 嫌(や)だ 池田澄子
(『豈 51号』2011.2)
野口 「とうれい」というよりは「ふゆうらら」と読みたい。「嫌だ」に至るまでに、一字空けの前までで、一句として成ってるんですけど、「嫌だ」ってところを読みたいな、という気がして。「先生が死んでおられる冬麗」だけだと、お利口に、先生の死を受け入れましたっていう態度をみせて、普通の人だったら、そういう風につくって終わっちゃうと思うんですよ。震災俳句にしてもそうですけど、やっぱり、「春の地震」とか季語にして、形をちゃんとつくって、俳句にしがちじゃないですか。でも、それってやっぱり、どこか違うなって思いがあって。真理ではない、というか。
村上 その解釈は、よく分かりました。普通は「冬麗」でやめるんだよね。わざわざこれを足したっていうことね。なるほど。
野口 足さなきゃいけない思いがあるなっていう。そこまででも、普通に俳句に成ってるんですけど・・・。一字空けで、思いを足す系として、東直子さんの「廃村を告げる活字に桃の皮触れれば滲みゆくばかり 来て」っていう短歌があって、それと似たようなつくり。こちらは、音はぴったりなんですけど。池田さんの句は、字余りですらなくて、足していきたいっていうところに、気持ちを込めてる。人が死んだとき、災害でもそうかもしれないんですけど、そういうときの真摯な俳句の作り方として、こういう作り方があるんだな、と思いました。
江渡 今の解釈を聞いて、なるほどな、と。
野口 え、ふつうはどう読むんですか?
江渡 いや、ふつうに、字が余ってる、って。
村上 だから、これをどう、五音のリズムで読むかってところに苦心していたんだけど、解釈聞いて、すごく共感できる句に見えてきた。
江渡 すごく思いの強い句に見える。
野口 たぶん、池田さんだったら、「冬麗」のところで止めた句は出せない、っていうか。出せないっていうのも変なんですけど・・・
神野 (カメラをいじりつつ)はっ・・・(驚)今まで撮った写真、全部消しちゃった・・・
一同 えええええ!(驚)
村上 それは、デジカメ?
神野 デジカメ。
江渡 中に残ってないの?
神野 残ってない(汗)
西村 えええええ!(驚)
生駒 こっから、まき直して撮ってきましょ。
野口 がんがん撮りましょ。
神野 ご、ごめん。話を戻しましょ。
野口 はい。“十七文字で収めた感”って、ないと思うんですよね。もちろん、わざと他人事っぽくつくるときにそうするってことはあると思うんですけど。
江渡 「嫌だ」って付けることによって、より、距離感が生まれるから、ちょっと自分と距離を置いてる感じがするな。そうすると、前半読んでるときは、これ澄子さん?ってかんじだったけど、「嫌だ」っていうところを足したってところに、なるほどって。
野口 「冬麗」までの作りかた自体は、よくあると思うんですよ。分かりやすいし。
村上 じゃあ、「冬麗」までは、人の句?
江渡 世間一般の、常識の上を流れているようなもの?それが「嫌だ」?
野口 私としては、そこまで言えるかは微妙ですけど、そこまででも俳句じゃないですか、ふつうに。
村上 僕は、自分で詠んだのかな、と思って。
野口 もちろん、自分で詠んだんだと思います。
村上 だから、こういう句を詠んだ自分に対して、一マスおいて、「嫌だ」って言ってるのかな、って。
野口 そうです、そうです。
村上 この一マスが、文字としては一マスだけど、心理的にはすごく・・・
江渡 そうそうそう。
村上 すごい空いてますよね。
野口 苦悩が感じられます。
西村 「おられる」のところに好感がもてるのかもしれない。
村上 そこですか。
西村 あたたかいかんじがしない?先生に対する。
生駒 澄子さんならそうなんでしょう。「先生ありがとうございました冬日ひとつ」とか。
野口 この句ができちゃった自分が嫌だっていうのもあるし、事実を受け入れがたいっていうのもあるし。
江渡 いろんな「嫌だ」がある。
野口 十七文字でできちゃってるところを、嫌だと思う、という。
村上 かなしみを、簡単におさめちゃった、みたいなね。
野口 おさまるもんじゃないんです、かなしみってものは。
西村 なにそれいきなり、名言っぽい発言(笑)
生駒 分かるんですけど、これは、俳句を踏み台にした一句といいますか。十七音があって、それを全否定するわけじゃないですか。「先生が死んでおられる冬麗」という俳句自体がもつ世界が、現実世界であり俳句の世界であり、それ全体を否定してしまっているので、これを読んだあとで、また五七五のリズムに戻って読んだとき、その十七文字がちゃんと説得力が出るのかっていうと、難しいという。
野口 もちろんそうなんですけど、型と内容の関係っていうところもあると思っていて。先生が死んだっていう大きなかなしみ、そういう大きなかなしみを受け入れる五七五の幅っていうのが・・・。もちろん、どんなものでも受け入れられる幅の広さが俳句の素晴らしさだっていうこともできるんだけど、やっぱり、個人的なものとして詠みたいと思うと、はみ出る気持ちっていうのがあるのだなって。
村上 先生が死んだっていう大きな事実に直面したから、こういう反則的なことがいきてくるんだよね。
江渡 この句が、すごく好きになってきました(笑)
野口 良かったです。
生駒 でも、搦め手な感じがします。ちょっと、ずるいなあ、って。ずるいなあ。
野口 紗希さん、どうですか。
神野 (取り戻すべく、写真を撮り続けていた)「死んでおられる」っていうのは、出棺のときとか・・・
村上 限定しなくてもいいんじゃないかな。
生駒 現実全体でしょうね。
神野 ずっと、死んでいるっていう状態が続いているっていうこと?
村上 持続じゃなくて、今、っていうことじゃないかな。
野口 今、この世にいないっていうことだけで十分、かなしい。
生駒 今、まさに、いないという現実。
神野 「死んでおられる」っていうのは、結構目の前にいる感じがするんだけどな。
西村 ええ、それは「嫌だ」けど・・・
野口 「おられる」っていうのは「おわす」っていうようなニュアンスじゃないですか。限定しなくても読める、連作でなくても読める句だと思いました。
神野 今、ずっと先生が死んでるっていうよりも、臨終や葬儀に居合わせてしまったときの感情っていうふうに、私は読んだんですけど。先生が亡くなって、いま、目の前に亡きがらとしてある、それが嫌だ、という風に、素直にとったんですけど。そういう風にとれるように「おられる」という言い方をしたのかなって。死んだこともそうだし、そんな日に冬麗だってことも嫌だ。
野口 きれいな季語が、余計かなしいですよね。
神野 亡くなってから五年十年経ったときでも、そのときのことをなまなましく思い出して詠んでる句だってとっていいかなって思います。でも「死んでおられる」って、ちょっと日本語としては変ですよね。「死んで」は結構ナマな言葉で、敬うのであれば「亡くなる」のほうを使うべきなんですけど、「死んで」に「おられる」っていう敬語を足すあたり、ぎょっとする感じが、「 忘れちゃえ赤紙神風草むす屍」って言える、池田さんらしさなのかな、と。
村上 池田さんは、こういう句をつくるんですね。僕は、こういう句とは距離を置いてきましたが、そうでありながら惹かれるところはあるんですよね。なんでしょう・・・今は見えないですけどね。でも、読みたい作家ではあります。
神野 ほかに「読みたい作家」というと誰が挙がりますか。
村上 やっぱり、長谷川櫂さん。池田さんもそうだけど、これから、どう変わっていくのかに興味があります。あとは、盤井さん(笑)
西村 たしかに(笑)
村上 中原道夫さんや櫂未知子さんも。
神野 そうなると、昭和三十年世代にかなり集中してるんでしょうか。
村上 軽舟さんも、読みたいしね。
(次回は、おまけ。世代について、ちょっと語ります)