「つくる」をよみあう 第2回 (御中虫「家の中」、久留島元「平成狂句百鬼夜行」)

神野紗希×江渡華子×野口る理

御中虫「家の中」

紗希  ノニノニだ。どこが目なのかな?

る理  鼻がここだから・・・

紗希  すごい視界悪いよね。

る理  御中虫さんのペット、兎のノニノニが語り手になって、御中家の日常を綴った連載です。

紗希  吾輩は猫である、みたいなね。

る理  力のこもった文章でしたねぇ。

華子  ノニノニのキャラクター、よかったねー。

紗希  類稀なる知性とサービス精神を感じました。

る理  依頼してから、二日かからないくらいで、全部の原稿が届きました。

華子  未だにその記録は破られてないね・・・。

紗希  すごいバイタリティかつこのクオリティ。

軍手と辞書とキウイがあって荒れ放題     (2011年7月3日

紗希  軍手と辞書とキウイの組み合わせが、新鮮な静物画みたいで良かった。軍手とキウイのチクチク感とか。

る理  軍手と辞書とキウイがある部屋、の荒れ方の美しさというか。

紗希  カップラーメンの蓋とかじゃないもんね。(笑)

華子  ドライで、荒れてるのに清潔感があった。

る理  力と知と、という分かりやすい構図へ、バランス取るように、キウイ。

紗希  キウイの翡翠色が最後に浮かんで、荒れ放題なのに、一匙の気品、みたいな。

鈍感なおばさん或いは善良ななめくじ     (2011年7月8日

紗希  「おばさん」も「なめくじ」も救われない。

華子  なめくじの擬人化に善良という言葉が使われてて新鮮だったね。どっちも小馬鹿にしているけど、天秤にかけているようでかけていない。

る理  「或いは」というところで、イコールとも少しずらしてある。

紗希  ニアー。

る理  ニャー?

紗希  あ、near、近いってこと。(笑)

る理  ああ、なるほど。(笑)「鈍感」と「善良」も似てますもんね。

華子  まー・・・どちらもよいと思ってない場合は分野として似てるのかなぁ・・・。でも、どっちも自らを評価するときに使う言葉じゃないもんね。

紗希  よくよく考えると、鈍感じゃない「おばさん」も、善良じゃない「なめくじ」もいないよね。

赤道直下に墓を建てたひできればピンクの     (2012年7月13日)

華子  この「建てたひ」の「ひ」ってなんだろうね。私は虫さんが墓に入るって思ってることが新鮮だったかも。あ、建てたいだけで入りたいわけじゃないのか・・・。

る理  「建てたひ」は、「虫語」ってやつじゃないですか。新仮名も旧仮名もごちゃ混ぜ、さらに独自の仮名遣いも混ぜちゃうというスタイル。

紗希  ピンクの墓って、そうとうショッキングだよね。しかも暑い赤道直下だから、よけい。

華子  赤道に出てくる「赤」とが「ピンク」になって、色の雰囲気にちょっとした統一性があって面白い。

る理  うーん、この句はちょっとサービスしすぎ感があるかなぁ。地味な墓のほうが逆に目立ちそう、というか。

思いやりは誇示してなんぼ如雨露は真紅     (2011年7月16日

る理  紙スピカにも転載しましたね。句・文ともに、虫さんらしいと思いました。

紗希  「如雨露は真紅」がいいね。基本的には、エネルギーと意味で書いているから、こちらの予測外のものが現れると、よりパワーが増す。如雨露はそういう予測外のものだよね。緑の如雨露だと、ナチュラルで懐かしい感じがしちゃうし。

る理  真紅は・・・

紗希  自己主張、誇示?愛の色でもあるよね。

華子  赤じゃなくて真紅だから余計に派手だね。

る理  「思いやりとはパフォーマンスなのよ」と文中で語る虫さんの言葉は高慢なのに、とても切ない声が聞こえてくる気がする。

捨てたはずの名刺を波が陸に戻す     (2011年7月26日

紗希  白波と名刺の紙の白が重なってきて、ふつうの波を見てても名刺を思い出しちゃうかも。

る理  自分が捨てて、波が戻して、っていう、自分と波の関係性が不思議。

華子  どうしても他人という存在がいる世界にいて、それから逃れられないって実感にも思えて少しせつない。

紗希  波の力があるって信じてるから、捨てたりできる、っていうところも実はある気がする。「はずの」を取れば、シンプルな句になるけど、「はずの」をいれることで、自分の当惑が表現されてる。

十分な広さを与えられて絶叫     (2011年7月27日)

華子  広すぎるから怖いっていうのは、ある意味まっとうな感覚だけど、十分というのは適度からそんなに離れている広さじゃないだろうなって思うんだよね。そんな個性的で目立つ句じゃないけど、この絶叫が気になって。

 紗希  今あるところに不満を抱いているから絶叫する、というのが、よくある反抗=絶叫のイメージだけど、「十分な広さ」を与えられているのに、なぜ絶叫しなきゃいけないのかってところが苦しさが伝わるね。いや、絶叫するのに十分な広さなのかな。どのくらいだろう。

る理  なんか、無機質な部屋の感じがするなあ、生きるのには「十分」くらいの。

紗希  声がある程度ひびいて、気持ちよく分散していく感じ。

る理  うーん、やっぱり、「十分な広さ」程度じゃダメな気持ちを感じたいですね。苦しさ。

○まとめ○

る理  最近は、関悦史さんのツイートを通じて自分の体験した震災を詠んだ句をまとめた『関揺れる』という句集を出されましたね。

紗希  この連載でも、思いやりのパフォーマンスがあったり、御中さんが注目されるきっかけになった芝不器男賞受賞の『おまへの倫理崩すためならなんぼでも車椅子奪ふぜ』の表題句も、また『関揺れる』も、共通して、コンセプチュアルアートの精神が流れてるよね。権力や倫理、俗に対抗するコンセプトが、まず在る。コンセプトのみにとどまらないで、句としても魅力的なものに仕立てるセンスがあるから、読んでいて面白いので、これはなかなか誰にでもはできない個性ですね。ただ、何かに対抗しない、彼女本体で、いつかは書くようになるのだとしたら、それを読んでみたくもある。

華子  彼女の主張は見てみたいんだけど、まわりがそれを面白がりすぎてる気も最近は感じる。簡単に面白がれるほど、彼女は軽い言葉を発しているとは思えないもの。まぁ、面白いって取り上げてくれる人がいるから新しい作品が読めるんだけどね・・・。

る理  虫さんの作品やコンセプトを、読者が面白がったり、拒否反応を示したり。でも、きっとそれだけで虫さんを知ったことにはならない。もちろん、作者を知ることが鑑賞・批評の目的ではありませんけれど。

紗希  コンセプトって、とっても分かりやすいところだから、批評家がとびつきやすいし、評価もしやすいんだけど、もうすこし句の表面に出にくいところに実はいる、彼女の残像みたいなものを、ゆっくり読み解いていきたいと思います。

久留島元 「平成狂句百鬼夜行」

紗希  タイトルは雄介にあててきてるのかな?なんかおどろおどろしいよね。

る理  基本的に、一日一匹妖怪が出てきて、妖怪を詠んだ句と、その妖怪を紹介する文を連載していただきました。

華子  久留島君って妖怪が好きなんだよね。怪談の季節だしぴったりだと思った。今は関西で院生してるんだよね。

紗希  中世の説話をやってるんだったっけ?それこそ妖怪のルーツを探るような。研究者ならではの実のある文章で、面白くまた知識欲も満たされましたね。

る理  トップの豆腐小僧(画:松野くらさん)も可愛かったです!

虹消えて山に山童川に川童     (2011年8月2日

紗希  虹っていうのは非日常で、虹が出てるときにヤマワロがいるというのなら分かりやすいけど、それが消えて日常に戻ったときに、「山童」「川童」がそこにいるというのは、日常の側に彼らがいるということ。その静けさみたいなものに惹かれました。

る理  虹が出たときじゃなくて、消えたとき、なのが良かったですね。かたちとしては、「○○に○○ □□に□□」というひとつのパターンですけれど。

華子  虹が出てるときには虹に気を取られて見えないのかもね。すべての妖怪がそうなのかもしれないけど。本当はいるのかもしれないけど、きっと私たちは「日常」そのものに気をとられててそばに当たり前に妖怪がいても気づかないのかもなぁって思った。

紗希  虹はすでに消えた、そして、いつか消えてしまうものとしての山童・川童、いつまで里山が…という感じもあるかね。

墓参道今は振り向いてはならぬ      2012年8月16日

華子  妖怪は描かれてないね。でも、よくわかる。日暮時なんだなっていうのもわかる。このだめって言われるとやりたくなる感覚なんだろうね。命令されると逆に振り向きたくなる。どっちにしろ背後から来るから怖いんだよ。

紗希  うん。ちょっと「墓参道」だから振り向いちゃダメっていうのは、そのまんますぎて意外性に欠ける気はするけどね。「今は」って、いつなら振り向いていいのかっていうと、たぶん永遠に振り向いちゃダメでしょ。

華子  そして文章にもちょっとびっくり。句と関係ないけど、この送り狼って、あの送り狼と関係あるのかな。

紗希  どうなんやろう!「この送り狼」「あの送り狼」っていうと、あの送り狼がたくさんいるみたい(笑)。

る理  え、あの送り狼、ってなんですか?いろいろいるの?

華子  送ったついでに襲うという・・・(しどろもどろ)

る理  (・・・Google画像検索・・・)速そう!(違)

川獺の牙おそろしき天の川     (2011年8月26日

る理  よむでも取り上げたのですが、私はこの句が好きでした。きらっきらっと牙が見えるような感じと、空の「天の川」の合わせ方が、清々しい。

紗希  「おそろしき」っていうのが、「天の川」を取り合わせることで、妙に納得できたなあ。カワウソの牙は、私たちの普通の感覚からすれば、そんなに「おそろし」くない。けれど、妖怪の伝説を下敷きにすれば「おそろしい」ものになる。そのギャップだけで終わらせずに「天の川」っていう圧倒的な自然を掲げることで、「おそろしい」川獺の牙も、ひとつの、そこにぽつんとあるものになる。そのへんのバランスがよかったです。

華子  川からぐっと空に視点がひっぱられてその距離感が気持ちよかった。

る理  可愛いカワウソの牙に怯えている人も、可愛いな。

秋蛍とらえて食べるぬらりひょん     (2011年8月27日

紗希  秋蛍が顔に近づいたとき、ほんのりとぬらりひょんの顔が照らされるかんじ。

華子  日曜の朝やってた「ゲゲゲの鬼太郎」で、ぬらりひょんがとてもこわかったのを覚えてる。これは今回の企画の中でも、一番妖怪が妖怪らしく描かれてるんじゃないかな。

る理  私も「ぬらりひょん」怖いです。だからこそ、「とらえて食べる」って行為に意外性がないというか。「秋蛍」なんて食べるなんて意外!という仕掛けだとすると、分かりやすすぎるし。

紗希  ぬらりひょんと秋蛍の邂逅がおもしろいだけに「とらえて食べる」の中七の措辞が、いまいち迫力に欠けるのが惜しまれる。

簔笠の佇んでをり野分めく     (2011年8月31日

紗希  文章のラスト、妖怪を支えているのは「それっぽさ」だという指摘がとっても面白かった。Gジャンとかは、妖怪になれないよね、それっぽくないから。

華子  そうねー(笑)長澤まさみがいまでてるドラマに「都市伝説の女」ってのがあるけど、そこに出てた座敷童も着物姿だったな。最近生まれた妖怪は最近の服装なんだけど、最近生まれた妖怪ってのはあるのかね。

る理  たしかに、蓑笠の句も「それっぽい」よね。妖怪が出てこないのに、妖怪っぽい。野分、のおかげかな。

紗希  「佇んでをり」ときて「野分めく」だと、あんまりしまらないかな。名詞でばしっと切ってほしい気がする。佇んでて、なおかつ野分っぽくなってきて、時間が間延びしちゃう気が。でも「野分っぽさ」は出てますよね、蓑笠で。かつてあったはずの光景が、現在の時間軸に残像として重なってみえる、のが妖怪、なのかも。

○まとめ○

る理  文体のパターンが分かっちゃうところはありますね。「~かもしれぬ」とか、「らしい」とか。妖怪だからかもしれないですけど。

紗希  いや、そういうところあるよね。たとえば「亡者船残暑の海に流れつく」(2011年8月23日)。残暑の海までは誘われるけれど、下5「~に流れつく」はさらっと定型句としてつけちゃった感じがする。みなぎってない。同じように、あと一歩、あとひと味ほしい、と思う句がありました。

る理  「狐面つけて祭の帰り道」(2011年8月25日)とかも、狐があんまり活きてない気がしました。もっと妖怪感がほしいというか。

華子  「帰り道」だからよけい人間が描かれた感がある。

紗希  「祭」だと、そういう風景もあるだろう、という普通の感じになるね。

る理  これからさらに、妖怪俳句、というジャンルを確立していってほしいですね。

華子  目に見えて感じるものじゃないけど、知識として存在するものなら、共有認識として使えるものね。

紗希  そのためには、俳句にも、妖怪っぽさ、「それっぽさ」つまりちょっとした深さが欲しいような気はします。文体が軽いので、妖怪がチープに見えるのが、作者の目指したいところとは違うように思うので、あえて。

(次回は、山澤香奈「我が家の場合」と宇井十間「正午」をよみあいます)